ホーム < キリスト教学校教育 < 02年11月号 < 4面

わたしのアルバム 時・所・人
キリスト教・教師・祈り


武 邦保先生を送る

中村 信博

 同志社女子大学特任教授武邦保先生は、今年七月二三日早朝、忽然と天の故郷に帰られた。六十八歳、直接の死因は肝不全だが、大腸がんと転移性肝腫瘍によるものであった。一年八ヶ月にもおよぶ闘病生活を身近に看取ってこられたご家族には、その日が突然であったというのは正確でないかもしれない。しかし、現役として教鞭をとりつづけられた学内にあっても、先生のご病状を知悉した者はごく限られていた。多くの学生そして教職員までもが、その悲報を訝しく感じるほどに、先生は何の前触れも残されずに逝ってしまわれた。そんな気がしてならない。

 その十日ほど前、春学期に担当されたクラスで最後の試験を済まされて、答案の束を抱え教室を出てこられた姿を多くの者が目撃していた。やや黄疸がかった顔色が気になりはしても、その日が先生との永訣の日となろうことなど、学生も教職員も予想だにできぬことであった。先生はその日のうちに入院され、数日後にはホスピス病棟にと移られた。病を得られてからは、学期中は授業の責任をはたし、長期の休暇を利用して入院治療に専念なさるというふうであられた。それは、周囲への気遣いのみならず、最期まで教壇に立ち続けることを願われた先生の気迫であった。

 四国学院大学を経て、同志社女子大学には一九六九年に着任された。以来三十三年の長きにわたり、先生は「聖書」担当者として奉職されたのであった。大学設置基準が大綱化されてからの十年ばかりは、カリキュラムや学部・学科組織の改編が連続し、先生の所属も一般教育、短期大学部、自由学芸教育研究センター、学芸学部英語英文学科というようにめまぐるしい変更を強いられていた。けれども、先生のアイデンティティーは一貫して「聖書」の教師であり、宗教教育の担い手としての自負であられたようにおもう。それは、一般教育主任を一期、宗教部長は三期にわたって務められたことにも窺うことができよう。同志社大学において神学を修められた先生が、それ以前に、法学部と大学院において政治学を専攻されたことや、同志社大学では国家学を講じておられたことも、学内において知る者はほとんどなかったようにおもう。

 牧師でもあられた先生は高松教会、琴平教会、善通寺教会を歴任され、京都では長く京都西大路教会の責任を担われた。少し長い学生時代を過ごされた先生は、全国学生YMCAの中心メンバーのおひとりでもあられ、本同盟におけるさまざまな研修会へもそのときに知己になれた方々との再会を楽しむようにして積極的に参加され、多大の貢献をなしてこられた。

 大学におけるキリスト教教育がともすれば、時代の趨勢に迎合し飲み込まれてしまいがちな状況のなかで、キャンパスにおけるキリスト教精神に拘られた。いっぽうで、NCC宗教研究所、SCM(社会的キリスト教運動)研究会、キリスト者政治連盟などにおける活動は、広く社会や諸宗教との接点を求められたものであった。

 ご逝去の報を聞いた卒業生や学生たちからは、葬儀告別についての問い合わせが殺到した。学生、卒業生、同僚、教会員の区別なく、ひとりひとりの気持ちを忖度され、寸暇を惜しむようにしてはがきや手紙を送りつづけられた。それは、相手を気遣う先生の祈りでもあった。「五ヶ月あまり、大任ご苦労様でした。どこかで立ち止まってください。山の繁みの中で聞く小鳥の声はなぐさめです。」まだご健康であられたとき、宗教部長の責を負うようになって五ヶ月の筆者を配慮し、信州の絵はがきに激務の経験者として添えてくださった先生の言葉である。いつも優しく笑顔で導いてくださった先生の慰めに満ちた声と、そこに込められた祈りとが、いまも聞こえてくるような気がしてならない。

<同志社女子大学宗教部長>
キリスト教学校教育 2002年11月号4面


(C)2002 キリスト教学校教育同盟