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クリスマスメッセージ
「法の下にある者をあがない出すため」

山内  眞

 ガラテヤ書4章4〜5節には、「…神は御子を女から生まれさせ…おつかわしになった。それは…わたしたちに子たる身分を授けるためであった」、とあります。このテクストは、しかし、パウロ自身の言葉ではなく、パウロが初期の教会から受けた定型伝承であり、おそらくは、主イエスの降誕にかかわる最古の伝承のひとつであります。

 もっとも、ここで注目したいのは、定型そのものではなく、パウロがそれに加筆している説明的文言であります。その部分の趣意をかいつまんで言えば、「御子の派遣の目的は、御子が十字架にかかり、わたしたちの罪をあがなうためである」、となります(4b〜5a節)。従って、結局、パウロは、御子の派遣についての定型を引き、しかし、それに御子の受難についての発言を重ねることによって〈御子の降誕〉の目的と、〈御子の十字架〉のヴァイタルなかかわりを宣明している、となるのであります。

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 省みて、おのが罪・非を否定しうる人はいないはずであります。パウロの悪徳表に見るごとく罪の形態は多様であり、それに際限はありません。まず、〈傲慢・怠慢・虚偽〉があります。通常、罪の三重の形態といわれるものです。人間はこれらの大罪のゆえにあるいは悶え、あるいはたがいに噛み合ってきた。それが歴史の実相であり、またそれらは、自分史においても払拭しえない染み・汚点であります。おおかたの人の日記のおおかたの部分はなんらかこれらに確実にかかわっているのを、誰が否定しうるでしょうか。人間はこれら三重の罪に縛られ、そこから諸々の悪がとめどなく吹き出している。ほとんど生得的とも思われる攻撃性・残忍性のゆえに、人間を〈好戦的な猿〉,〈墓場なき死者〉と捉えている人々さえいます。〈責任応答性〉の欠如という点も看過できません。そして、それらのベースには、創造者にして聖なる神を恐れ・畏れないという由々しき根本事態、すなわち特殊的・本来的に受けた〈神の似像〉の喪失という深刻な問題があります。

 現代人にとって罪はもはや宗教的概念ではなく、むしろそれは単に社会的・人間論的なものでしかない、との指摘がありますが、われわれはそうした地球全体を覆っているクライメイトの直中にあって、神に対する罪、すなわち神に対する〈傲慢・怠慢・虚偽〉が人間の抱えている問題の根底にあることにこの季節、深く思いを致すべきでありましょう。

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 クリスマスの夜空に、ベツレヘムの星に重なって、鮮やかに映し出されている〈罪のあがないのための十字架〉を仰ぎ見、そのことをとおして、今年、もう一度、〈イエスのヒストリー〉による〈私のヒストリー〉の根源的更新を経験するところへと導かれたく願うのであります。

< 東京神学大学学長 >
キリスト教学校教育 2002年12月号1面


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