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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

聖書のことば

鐵口 宗久

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された   ヨハネ3・16

 以前本校の生徒たちに、「クリスマスと聞いて何を連想するか。」と問うたことがあった。多感な年令に相応しく、多様な反応があったが、概ね「クリスマス=プレゼント」というものであり、クリスマス本来の意味を理解していない生徒の多さに驚いた。確かにクリスにはプレゼントという発想は理解出来る。

 サンタクロースに代表される様に、プレゼントはクリスマスによく似合うものだろう。また、プレゼントには贈る方の強い思いも感じることが出来、O・ヘンリー作『賢者の贈り物』にも見られる様に、プレゼント一つで心暖まるエピソードは、沢山存在するのである。ただ、商業ベースに乗せられてしまい、クリスマス本来の意義も知らず、クリスマスにはプレゼントという安易な発想が、蔓延しているのが現実である。

 にもかかわらず、クリスマスにはプレゼントが何故似合うのだろうか。クリスマス本来の意味は、まさしく御子イエス・キリストの誕生を喜ぶ日である。文字通り、キリストの御降誕を祝う礼拝を守る時であるが、同時に、神からイエスという最も大いなるプレゼントを与えられた日も意味するのである。神が大切な独り子イエスをプレゼンとして下さった、感謝の日である。神は私たちを愛してくださり、その愛の印としてイエスをこの世に与えてくださった。この様に、クリスマスが、イエスという大いなるプレゼントを与えてくださった日と考えるならば、まさしく、「クリスマス=プレゼント」という発想は、なんの違和感もないのである。

 間もなくクリスマスを迎える。各校、各々の教派と伝統に基づき、クリスマスを過ごされるが、イエスの御降誕を祝うだけでなく、最も大いなるプレゼントを与えられた日であることを静かに、留意し、それを感謝しながら、素晴らしいクリスマスを迎えて頂きたいと願うのである。

〈鎮西学院高等学校宗教主任〉

キリスト教学校教育 2002年12月号1面

聖書のことば

樋口 誠

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ(コレヘトの言葉12・1)
 
 この旧約聖書のことばはどの学校においてもたいせつにおぼえられ重んじられている聖句のひとつである。わが校でも新入生をむかえるときのオリエンテーションで毎年強調して話している。それは生徒諸君が自分の力だけで生きているのではなく、〈創造主〉によって生かされていることにすこしずつめざめていってほしいし、特に長い生涯における逆境のときにこそ〈創造主〉に心を向けて逞しく乗り越えていってほしいと心から願うからである。学校教育の目的はその生徒の順調なときではなく、むしろ逆境のとき、自分の力の限界を痛感し、絶望的な状況に立ち至ったときにこそ力を発揮するものでなければならない。

 主の祈りの冒頭のことばは「天にまします我らの父よ」という呼びかけであるが、〈天にまします〉というのは神が空の上におられるということではなく、神がわたしたち人間をはじめ、天地万物の創造者であるということを意味している。そして神が自分の創造者であるということは、常に神が全能の力をもってわたしたちひとりひとりを守り導き、たとえ自分の目には災いと思われることも、それらをすべて〈自分の益〉としてくださることを信じて疑わないことである(ローマ8・28)。このような創造主に心が向けられるとき、いろんな試練のなかで挫けることなく、むしろそれをバネにして成長する道が開かれるのではないだろうか。

 ザビエルが日本伝道を決意して旅立つ前にマラッカからヨーロッパに書き送った手紙には「わたしたちが日本に行くのは、神の似姿に造られた人びとに、ただその創造主を知ってほしいからです」とその目的が書かれている。感銘深い一文である。そしてわたしたちはそのチャンスが〈青春の日々〉であることも銘記しなければならない。心身共におおきく変化し成長する青春の日々こそ、創造主のことをかんがえ始める絶好の機会なのである。

〈東北学院中高校宗教主任〉

キリスト教学校教育 2003年5月号1面