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第45回学校代表者協議会
主題 「情報化社会におけるキリスト教学校教育」

基調講演
情報化社会における真のコミュニケーション

佐伯 胖

1. i-モード時代のコミュニケーション

 青山学院大学国際政治経済学部の小原信教授は、著書『i-モード社会の「われとわれわれ」―情報倫理学の試み―』(中公叢書、二〇〇二年)のなかで、情報化社会におけるコミュニケーションの危機的状況を分析している。小原氏によれば、情報化社会では「いつでも誰とでも連絡でき、瞬時に自己表出できることで、われわれは人とともに過ごす時間や、自分の内面と向き合う手続きを失う」という。小原氏によれば、大文字のI(わたし)は、いまや、小文字のiになってしまった。小原氏はそれを「 i-dentity」と名付け、自我意識が希薄な、ネットに浮遊する自我を指すことばとした。さらに、小文字のiである「われ」というのは、実は、やはり小文字のweといつでもすり替わるのだという。漠然と「同類」とされる仲間としての「われわれ」である。そのように、iがすりかわったwe意識のことを「we-dentity」 という。つまり、i-dentityはwe-dentityによって支えられているため、つねに「ボクたち、ワタシたちって、同じよね。」ということを確認するために、たえず、ケータイで連絡を取り合うのである。このような場合、「わたし」といっているときは、暗黙の内に「わたしたち」といっているのと同じになるしだいである。

 このような「i-モード時代のコミュニケーション」では、相手を傷つけること極端にをおそれ、相手と意見が違うことをおそれ、あたりさわりのないコミュニケーションに終始するようになる。なぜなら、もともとひ弱なi-dentityがかろうじてwe-dentityによって支えられているため、we-dentityが壊れてしまうと、自分自身のi-dentityも壊れてしまうからである。


2. コミュニケーションとは何か

 そもそも、コミュニケーションとは何だろうか。コミュニケーションというのは、ただ情報を送り合うことではない。ただ、「○○を教えてください。」と質問し、「はい、△△です。」と応えるだけのことではない。コミュニケーションとは、基本的には、相互の「他者理解」のことである。他者理解というのは、他者には自分とは異なる背景(歴史、文化)があり、異なる考え方や価値観、習慣をもった「未知なる他者」である。そのような他者と関わることで、こちらの知識や考え方を「相対化」して、自らを「外からの目」で見直すことによって、新しい自分を発見し、新しい自分を創出することこそがコミュニケーションなのである。その意味で、コミュニケーションとは、本質的に、「異文化交流」でもある。むしろ、「異文化交流」というのはコミュニケーションそのものだと言ってもよい。「異文化」ときめつけた相手と、たんに「情報交換」するというのは、そもそも本来の異文化交流でもないし、コミュニケーションでもない。コミュニケーションの相手というのは、どこまでも未知なる他者であり、その未知なる他者は、「自分を変えてくれる」可能性のある他者であり、「学びあう」パートナーとしての他者である。


3. コミュニケーション喪失を生み出すもの

 我が国では、幼児教育から初等中等教育、さらには大学教育まで、個(人主義)と集団(主義)を二項対立的にとらえる教育思想が支配的である。「個を大切にする」教育というのは「個人主義」教育と呼ばれ、どこまでも本人の自主性を尊重する。幼児教育でいえば、子どもは「自由遊び」の中で育つとされる。そして、子どもは「のびのびとしている」のが善いとされる。このような考え方からすれば、コミュニケーションというのは、自分のやりたいことの主張か、もしくは、相手のやりたいことに「あわせる」かいずれかになる。一方、自分自身は「集団」のなかの一人であることを強調し、子どもに「集団生活」の習慣を身に付けさせることが大切だとする教育は「集団主義」教育と呼ばれる。集団主義のもとでは、「みんなの迷惑になること」はやってはいけないことであり、みんなが従っている規則には、絶対服従しなければならない。みんなが一斉に力を合わせるからこそ、大きな成果が得られるのだとする。

 我が国の場合、多くの幼稚園での教育は個人主義的な考え方が支配的だが、小学校や中学校では、集団主義的教育が支配的になる。大学に入ると、突然、再び個人主義的な考え方になり、自分の勉強、生活設計、将来計画など、すべて「自分で」決めなければならなくなる。このように、小学校以来ずっと集団主義的な教育を受けてきたところ、突然、「自由」になってしまった大学生は、自分の拠り所を失い、小さな「we」でよいから、どこかのグループに所属して、そのメンバーであることで、かろうじて、自分の「居場所」を確保しようとするのである。
このように、集団主義と個人主義が二項対立的にとらえられて、それらの間を行ったり来たりしている状況では、自己中心的な自己主張か、「みんなに合わせること」しか考えないか、いずれかに陥り、その場合は、コミュニケーションはまさに、自分の意図の伝達か、他人の意図の受容かのいずれかにしかならない。


4.「コミュニティ(「共同体」)」という考え方

個人主義教育でも集団主義教育でもない考え方として、「共同体主義」(communalism)の教育がある。イタリアのレッジョ・エミリア市では、すべての子ども一人ひとりが独自の個性を伸ばすこと、一人ひとりの「自分探し」をみんなが支え合い、相互のそれを「観賞(appreciate)」しあう教育である。かけがえのない個人が、そのかけがえのないやり方で、共同体の活動や実践に参加していくようにしていくという教育である。この場合の「共同体(community)というのは、ただ人が集まっているだけでもないし、一斉に一つのことを「力を合わせて」するという集団ではない。それぞれがそれぞれなりに、「善きもの」を生みだし、他人の生み出した「善きもの」をともに喜び合うという人びとの集まりである。そこではつねに、互いの「学び合い」がある。互いに「善さ」を発見し、作り上げていく。


5. 人が世界とかかわる三層モデル(学びのドーナッツ)

佐伯は、そのような「学び合う」共同体では、「わたし(I)」は「あなた(YOU)」と呼ぶべき親密な他者と出会い、そのYOUとしての他者を通して、そのYOUとともに、文化・社会の実践の世界(THEY世界)に参加するようになると述べている(図一参照)。このような関係構造を「学びのドーナッツ」と呼んでいる(拙書『「学ぶ」ということの意味』岩波書店、一九九五年)。 
図1:学びのドーナッツ

 この場合、IとYOUが出会うところを第一接面とよび、YOUと共に、文化的実践の世界(THEY世界)に参加するところを第二接面とよぶ(佐伯、1995)。
 ここで重要なのは、YOU的他者との出会いである。YOU的他者とは、この「わたし」を「かけがえのない存在」として扱ってくれる人であり、「わたし」の存在そのものを肯定してくれる他者である。「わたし」の訴え(主張、期待、望み)の背景、根拠、理由、そうならざるをえない必然性、などに耳を傾けてくれる他者である。
 このYOU的他者は、たんに「自分に寄り添ってくれる」だけではない。この「わたし」にきちんと、向き合ってくれる他者であると同時に、未知なる「外の世界」(THEY世界)をかいま見させてくれる他者である。さらに、そのYOU的他者自身が、そのTHEY世界で「善く生きようとしている」姿をさらけだしている。彼(彼女)自身が文化としての価値あるもの、いわば「作品」を生み出そうとしており、そのような実践に「わたし」いざなう。そこでは「ひとりひとりが、自分らしくあること」へ向かわせられる。あなたも、「本当の自分をさがしなさい。」といってくれるのである。ともに何かよいこと(実践)をしようと、よびかける他者である。


6. 情報化社会での真のコミュニケーション

 情報化社会のコミュニケーションは、つねに二つの危険性にさらされている。第一の危険性は、親しい友人との関係が第二接面だけのカプセル内に閉じこもったコミュニケーションに陥ることであり、社会・文化的世界への参加へつながるべき第二接面が喪失したコミュニケーションになってしまうことである。お互いが「内輪」だけでしか通じないことばを話し、お互いにたんに同じグループに所属していることを確認するためだけの会話になる。小原氏がi-モード社会と呼んだ世界の中に閉じこもったコミュニケーションである。
第二の危険性は、テレビやテレビゲーム、あるいはインターネットの世界に没入し、第一接面で出会うべきYOU的他者を介さずに、いきなり第二接面の社会・文化と直接的に接触する。そこでは、無名性の情報を一方的に収集するか、自らは無名の一般へむけて、情報を「発信」するだけである。このような、YOU 的他者との出会いのない世界では、つねに、自らを「多くの一般的他者のなかの一人(ONE OF THEM)」としてしか自覚できなくなってしまう。そのような「ONE OF THEM」としての「わたし」は、誰でもいい「だれか」にすぎず、孤独の中で、ただモノローグ(独り言)に耽っている、「孤独なる群集」の一人になる。
このような情報化社会のなかで、真のコミュニケーションを回復するには、なんといっても、「学び合うYOU的他者との共同体」を作りださなければならない。同質化を求めるのではなく、個人個人の独自の生き方を認め合い、はげましあう世界である。それでいて、ただ「仲良し仲間」にとどまらず、社会・文化の実践の世界(THEY世界)をかいま見て、それへのあこがれと、自らのカラを破る勇気をもって、YOU的他者とともに参加していこうとする世界である。そこでは、思いのたけをはき出す激しい語り合いもあれば、しんみりとした、トツトツとした、ほとんど沈黙に近い会話もある。親しい仲であっても、「仲間同士だけで見つめ合う」のではなく、外の、世の中の、世界の、個人を超えた多くの人たちの苦しみ、なげき、悲しみを「我がごと」とし、葛藤を恐れず、しかし、希望をもちつづける人間同士が、お互いの善さを観賞(appreciate)しあう、そういう「関わり合い」としてのコミュニケーションを取り戻さねばならない。


< 青山学院大学文学部教育学科教授 >
キリスト教学校教育 2003年1月号2面



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