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信じるとは  キリスト教Q&A
神を信じる
香山 洋人

 Q.聖書の教えには共感する部分が多いのですが、「神を信じる」という気にはなりません。クリスチャンが信じているものとはなんなのでしょうか。


 A.「あなたは神を信じますか?」と問われて、クリスチャンであれば「はい」と答えるのが当然かもしれません。しかし、わたしたちにとって「神を信じる」という言葉はそれほど単純ではありません。

 「神を信じる」というとき多くの人は「神はいる」という意味を込めています。無神論の反対語です。しかしこれは「ネッシーを信じる」とか、「UFOの存在を信じる」というのと同じ意味で、「あるか無いか、いるかいないか」の問題です。しかし、クリスチャンは神の存在を信じている、のでしょうか。

 聖書の人々にとっての「信仰」はまったく違うものだったはずです。なぜなら、洋の東西を問わず、古代人にとって神がいるということは当たり前の事実でしたから、神は存在するかどうかという問いはかなり衝撃的であるに違いありません。

 旧約聖書の人々はイスラエルの神か、他の神かという問いの前で生きていきました。新約聖書に登場する人々も、神の存在そのものを疑ったりはしていません。神は世の初めから存在し、世は神によって創られ、人は神に服従しその支配の中を生きて行くのだという感覚はおそらく当時の誰もが共有していたもの、いわば常識であったはずです。問題は、神に従って生きていくとはどうすることなのか、ということでした。

 日本社会においても、わたしたちは長年「神仏」の存在を前提に生きてきました。それは特定の宗教に所属するかどうかとは別の次元なのですが、超越的なものとか、神秘的なものを感じながら生きてきたのは確かです。この感覚を、「価値」や「意味」といいかえてとらえていけば哲学の世界になるのですが、信仰とか宗教という言葉を使い始めると、とたんに警戒心が湧いてきたり、反理性的なこと、自分とは縁遠いことに思えてくるのかもしれません。これは神ではなく宗教に対する不信感が問題なのでしょう。

 「信じる」という言葉の意味は「信頼を寄せる」ということです。わたしたちが寄って立つものは何かという問題です。それはお金だと答える人は「お金を信じている」ということになるでしょう。お金を信じているという人に対して、「お金って何?」と問う人はいないはずです。お金とは何か誰もがイメージをもっているからです。しかし、「神を信じますか?」と問われたとき、「あなたが言ってる神って何?」と問い返したくならないでしょうか。神そのものをイメージすることは簡単ではないからです。

 「信じる者しか救わないせこい神様拝むよりは、僕とずっといっしょにいる方が気持ちよくなれるから」。これは若者を中心に絶大な人気を誇るB'zのヒット曲の歌詞の一部です。ここには「信じる者しか救わないせこい神」というはっきりした神のイメージがありますから、そんな神を信じる必要は無いという当然の答えが出てきます。もちろんわたしもそんな「せこい神様」を信頼して生きて行く気持ちはありません。

 キリスト教の信仰は、聖書が証しする神に信頼して生きていくということです。神とは何者か、という問いに対して教会は「イエスのような方」と答えます。イエスは確かに存在した人物です。自分に敵対する人々を愛し、信じない人々のために命をなげうった方です。

 問題は、自分以外の何者かに信頼を寄せなくていいのか、自分を越えた力の助けによって、自分の限界を突き破っていかなくていいのかということです。聖書が伝えるイエスの物語は、信頼して歩むことのすばらしさを伝えてくれるはずです。

〈立教大学チャプレン〉
キリスト教学校教育 2003年5月号4面


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