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「キリストから」と「キリストへ」
大友  浩

 私が現職に就任してから4年目になるが、その間にキリスト教学校における教育のあり方に関して、いろいろの問題の中でもとりわけ考えさせられてきた。まず、ごく少数の例外はあるが、学生のほとんどはキリスト教に関心を持って入学してくるわけではない。たとえば、本学ではキリスト教に関する科目は、「聖書の世界1・2」、「キリスト教の歴史1・2」、「キリスト教の文化1・2」の3つであり、その中から4単位を取ることになっている(選択必修)。教室は学問の場であるから、キリスト教科目の授業は決して伝道や宗教活動ではなく、キリスト教やその諸問題についての客観的考察を目標としているという姿勢は私も担当者も明確にしているつもりだが、必修のキリスト教科目があるだけで多くの学生諸君がキリスト教を押し付けられていると感じるらしい。宗教に対する浅薄な無関心やアレルギーが日本社会全体にあるためだろう。そういう状況では、選択必修の枠をはずすか否かを論議を重ねて検討すべきである、と私は考えている。むろん、福音に基づく建学の精神を抜きにしたら教育の背骨がなくなるという点を踏まえて、粘り強くこちらの姿勢を説明し、キリスト教教育を充実する必要はある。

 キリスト教教育とは曖昧な言い方だが、まず、「キリストからの教育」の面がある。チャプレン・宗教主任はもとより、理事長や学長等、学内枢要に当たる部分がしっかりとイエス・キリストにつながっていれば、大学構成員(学生はその中心)全体がいわばキリストの磁場に置かれる。キリストへの信仰を告白していない教職員もその中に置かれ、そこで活動することを通して、教育の明確な方向付けをすることができるのである。世に流される志の低い秀才を送り出しても、あまり社会の益とはならない。人間を腐敗させる上昇志向や権力志向とは別の、大切な道があることを、学生に知らせるところにキリスト教学校の柱があるのではないか。これはどの場面でも、教室でもどこでも可能で必要な道である。要は、時流や誘惑に屈しない独立の人格を持った知識人を形成するのが目標である。福音はそのためにまたとない源流である。

 さらに、「キリストへの教育」を忘れてはならない(普通の言い方では伝道)。チャペルでの礼拝、宗教部(各学校で呼び名はいろいろだが)の働きや学生のキリスト教的部活動などを通してなされるものであって、強制を慎重に避けた自由参加が基本となるべきものである。これはチャプレンを中心として、キリスト者教職員一同が、祈り、考え、実行すべきものである。日頃の言動による証が大切である。キリスト者の内紛や不祥事は致命傷をもたらすだろう。いずれにしても、キリストに仕えるものを生み出さなければ、キリスト教学校の看板倒れである。

 以上、教育と伝道を区別して述べてきたが、分離はできない。この2つを分離するのは、世と教会、キリスト教と異教、信者と不信者を切り離すのと同じ悪しき二元論である。  

〈北星学園大学長・大学短期大学部学長〉
キリスト教学校教育 2003年6月号1面


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