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「同盟百年史」編纂委員会から
教育同盟の設立と課題をどこに求めるか
大西 晴樹

 教育同盟の設立と課題はどこに求められるのだろうか。これまでの解釈では、同盟設立の主な要因として、1899年の文部省訓令第12号によるキリスト教学校の結束が強調されてきた。しかしながら、訓令12号から10年以上経過した1910年になって教育同盟が設立されたのはなぜか、という点にかんして、これまで十分な説明がされてこなかったのではないか。私は同盟の設立を、1910年のエディンバラ世界宣教大会、その後の継続委員会、その後身である国際宣教協議会といった国際エキュメニカル運動の流れのなかに求めたい。この流れは駐日宣教師を媒介して、国内では福音同盟、日本基督教同盟、日本基督教連盟という教会の超教派組織を作り出していくが、キリスト教学校の寄り合い所帯である教育同盟とて例外ではなかった。

 なぜ国際的契機を重視して教育同盟を捉えるのかというと、戦前における教育同盟の歩みのなかには、発足の当初から「キリスト教大学」Union Christian College or University in Japan設立運動という具体的課題があったからである。この運動、女子大学の方は1918年に開校した東京女子大学Woman’s Christian College of Japanに結実するが、男子大学の方は、ついに日の目を見ることなく終わった。
 
 私はこの運動を第一次、第二次という具合に、時期と目標を異にする運動として捉えてみた。第一次運動は井深梶之助を中心に、専門学校令が出された1903年ごろから開始され、エディンバラ大会を経て、実際の「学校合同」organic union運動が失敗し、井深が教育同盟理事長を退いた1915年頃までを指し、第二次運動は教派を超えたアメリカ海外伝道局の働きかけで再開され、1928年のイェルサレム世界宣教大会頃から盛り上がり、第一次運動の経験からもはや「合同」ではなく、既存のキリスト教学校を前提とした「連立federatedキリスト教大学」を目指した。第二次運動は、1918年の大学令を背景に、教育同盟理事会と日本基督教連盟教育部を結びつけた田川大吉郎の指導下に進められ、1939年の国際教育調査報告まで継続するのである。この年には宗教団体法が成立し、国際エキュメニカル運動との関係は途絶するから、ここに万事休したのである。戦後、この運動の成果は国際基督教大学International Christian Universityとして開花するが、これほどまでに戦前の教育同盟を引っ張ったのに、日の目をみない「エキュメニズムの亡霊」であったせいか、第一次運動は、教育同盟総会議事録が1917年開催の第7回総会まで不明であったことも手伝って、教育同盟史のなかに正当に位置づけられることはなかったし、第二次運動については言及すらされてこなかったのである。

 この運動を通じて学ぶべきは、訓令12号の痛手から立ち直りつつあったキリスト教学校が、高等教育の需要増大のなかで、帝国大学と競合しうる「キリスト教大学」を作ろうとした教育同盟による課題の共有であり、各教派の神学校を母体として発展したそれぞれのキリスト教学校の独自性と、それを超えて変革を要求する国際エキュメニズムの対立と相克なのである。訓令12号に対する「キリスト教教育」擁護だけに教育同盟の設立と課題を求めるのではなく、国際的な視野で捉えてみたいものである。(なお「キリスト教大学」については拙稿が「キリスト教大学設立運動と教育同盟」と題して、6月上旬刊行の『教育同盟百年史紀要』創刊号に掲載される予定である)。

〈明治学院大学経済学部教授〉
キリスト教学校教育 2003年6月号4面


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