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パネルディスカッション発題

生徒の心の重荷に対する学校礼拝の役割
青野和彦

1、「重荷」を担う場としての学校礼拝
 キリスト教(主義)学校に於けるキリスト教教育は、内容・対象ともに実に多様性に富んだものである。

 学校礼拝だけがその全てとは言えないが、それがキリスト教学校教育の核として中心的位置を保持している事実を否定できない。

 キリスト教を、建学の精神として学校の寄付行為に於いて標榜する以上、学校礼拝は学内教育の中で公的地位を認知されるばかりか、対象である生徒や教職員にとっても教育の核として実質的に機能される必要が当然有る。

 学校礼拝が実質化されてゆく為には、キリスト教とは疎遠な社会文化に生きる生徒達に対し、何よりもキリストの福音が伝わらなくてはならない。

 つまり、それはキリスト教教育の生命線である福音の意味を現代の消費型社会に生きる生徒達(若者)の向かって、その目線で伝達していく作業でもある。その為に、我々担当者の信仰はもとより、生徒達とその環境を把握し、受容する姿勢が問われてくる。


2、生徒の抱える「重荷」とは?
 キリストは、福音が「重荷を負い、苦しむ人々の解放と自由のため」(ルカ4・18,19)にあると言われた。では、現代の高校生達にとって「重荷」とは何であろうか?

 確かに聖書の時代のような物質的欠乏や奴隷制度等の社会的重圧は殆どないだろうが、明らかに存在する重荷の一つは「心の悩み」である。私の教育現場からさらに分析するならば、それは(1)進路上の悩み、(2)性・体の悩み、(3)自分の個性や賜物をもちながらそれを発見できずにいる悩み、である。

 これらは生徒達のメンタリティーが後退した結果、生じた悩みではなく、むしろ高校生を取り巻く不透明・不確実な社会状況がその大きな要因であると思われる。特に家庭での親の無関心や過保護、若者を忌避・疎外するような大人側の風潮こそが若者の自己発見や可能性伸長を疎外している主要因になっている。我々学校の教師側にも問題はないとは言えない。まず生徒達と向き合っているだろうか?

 宮崎駿氏の大ヒットアニメ作「千と千尋の神隠し」の中に千尋という十歳の少女が登場する。妖怪の温泉街に迷い込んだ彼女は自分の名前(=アイデンティティー)を一度奪われるものの、異なる存在との交流や異文化体験の中で名前を取り戻し、自分らしさを発見してゆく。

 高校生の年代は本格的に自己を模索する時期であり、この時期に自己発見に失敗すると後に影響を残してしまうと心理学的には言われている。果たして現代の高校生(若者)は、自己発見出来易い環境に置かれているだろうか?依然として妖怪の町のような現代社会の中で自己を埋没させられたままではないだろうか?


3、学校礼拝にとっての希望と役割
 最後にキリスト教(主義)学校に於ける学校礼拝の役割とは何かを紙面の範囲内で示したい。

 もちろん、礼拝は旧・新約聖書やキリスト教全体の基礎知識の伝達、聖書解釈というスタンダードな役割もあるが、さらには生徒達の実存的重荷にも応答するものであらねばならないと私自身、最近の教育経験のなかで痛感している。その為には、まず礼拝に携わる担当者が常に生徒達と向かい合い、彼等彼女等の状況を把握する姿勢を持つことが不可欠である。

 では、そこで何を福音=希望として語るのか?

 その一つとして、「見失った羊のたとえ」、「放蕩息子のたとえ」(共にルカ福音書15章)の中でキリストが示す「受容・肯定・赦し」が現代の高校生・若者に対して希望となり得ると私は信じている。生徒達も表面上ではなく、根底から存在が肯定・受容される必要があると感じているからである。 

 これらの譬え話に登場するような超寛容な主人は現代社会には殆ど存在しないかもしれないが、逆に言えば、キリストは接した一人一人を実によく把握されていたからこそ、人々の可能性を活かし、心の重荷を解放してやれたのではないかと私は信じる。規律や訓練を時には厳しく教えつつも、学校礼拝で語る我々には、生徒を「受容・肯定・赦し」をもって根底で受容する姿勢が必要である。

 我々はこの視点に立ち、生徒達の心の重荷に応答しつつ、異なる素材や具の良さを活かす「お好み焼き」のように、神から賦与された生徒の潜在性を伸ばす礼拝の役割を謙虚に果たしたい。

〈東奥義塾高等学校 宗教主事〉
キリスト教学校教育 2003年9月号2面


キリスト教学校教育同盟