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主張: 今、キリスト教主義とは
山内 一郎

 318校、344602名。2003年度5月現在の本同盟傘下プロテスタント・クリスチャン・スクール(小学校から大学まで)とそこに学ぶ児童、生徒、学生数である。

 クリスチャン・スクールの直訳は「キリスト教学校」であるが、これはクリスチャンが総人口の1%というわが国の実状に即して言えば、甚だ曖昧な呼称で、誤解も招きかねない。抑も「キリスト教教育」と言う概念からして、「キリスト教」と「教育」のいずれに力点を置くかによって異なる意味内容を含蓄することになる。キリスト教自体を主要内容とし、間接的にせよ、キリスト教「への」教育を志向する狭義のキリスト教教育(聖書、キリスト教関連授業、チャペル活動など)に対して、むしろ教育一般を主眼とし、キリスト教の諸原理「による」教育を目指す場合には、これを「キリスト教主義教育」と呼ぶことができよう。

 ここで言う「キリスト教主義」とは、キリスト教というプリンシプル、その人間と自然、歴史と文化、あるいは倫理にかかわる普遍的な価値観を教学と経営一切の根拠として主体的に選択し、文化の地平で自らのアイデンティティー(個性と生命)を自覚的に表明する旗印、拠って立つ「土台」である。

 したがって、キリスト教主義を「建学の精神」とするスクールは、そのすべての構成員が、キリスト者であると否とにかかわらず、この公共的なミッション実現のために共働する使命共同体(purposeful community)であると言えよう。

 ただしかし、この「主義」を独善的、排他的な原理ととることの危険を避けなくてはならない。今は人類が精神の拠り所を見失い、物に代わる確かなものを求める「心の時代」と言われるが、同時に教条的、熱狂的、破壊的な宗教に対する警戒心や不信感も増幅されている。キリスト教もさまざまな問題を抱えているが、それだけでなく、今やキリスト教自体が人類の問題の一部(起爆剤)になっている、そういう時代である。

 それゆえ、自己を絶対化することをひとたび断念することによって初めて可能となる豊かな共生、他の異なる立場との出会いの中で自らのスタンスを創り出すJ・ウエスレーの言う意味での動的な相関主義の見地、イエスの呼びかけに従えば、「自分の内に塩を持ち、互いに和らぐ」(マルコ9・50)強靱なエートスの確立こそが要諦と思われる。

 近代以後の科学技術文明の発達と経済至上主義の選択の中で、ついに人間の精神や遺伝子も含めすべて物質に還元するような新しい唯物論、人々が生きる意味や根拠を喪失しつつあるこのニヒルな時代に挑むキリスト教主義学校の社会的使命は、虚無の反対の極である希望の教育を忍耐と勇気をもって押し進め、新しい「知」のパラダイムの構築とその担い手たる若い世代の豊かな「人格」形成を追求しつづける働きにある。

〈関西学院理事長・院長、教育同盟理事長〉
キリスト教学校教育 2003年10月号1面


キリスト教学校教育同盟