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聖書のことば
井上  馨

 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 (フィリピの信徒への手紙4・4〜7)

 私たちの学校が誕生してから今日まで、一日も欠かさず守ってきたものがあります。それは何かといいますと礼拝です。私たちの学校は毎朝礼拝を守り、一日の歩みを始めます。礼拝の中で、聖書を通して神のみ言葉を聞きますが、神のみ言葉を聞いて何がわかるのでしょうか。まず人間がどんな存在かがわかります。聖なる神のみ言葉に自分を照らし合わせてみるとき、自分が如何に神から遠く離れた者であるかがわかります。聖書は、人間は造り主である神に反逆し、背を向け、滅びへと向かっていると断言しております。

 現在この世界は混乱しております。至る所でテロがあり、戦争があり、多くの人々の血が流されております。日本国内を見ましても、凶悪犯罪が次々と起こっております。これらはみな神に反逆している人間の姿といってよいと思います。

 しかしそういった人間を神はどうされたかといいますと、救おうとされ、人類の歴史の中で救いの行為をなされました。聖書は神の救いの行為の記録であるということが出来ます。それでは神は具体的に何をなされたのでしょうか。神は人類の歴史の中で一人の人となり、この世に来られ、私たちの罪を負って十字架の上で死んでくださいました。全世界の富よりも尊いご自分の命まで捨てて、私たちを死と滅びから救い出してくださいました。

 この神の救いの行為を知るとき、心の中に感謝と喜びがわいてきます。この手紙を書いたパウロは、「喜びなさい。何事につけ感謝しなさい」と言っておりますが、パウロの喜びや感謝は、神の救いの行為を見つめることから生まれたものであるといえます。

 私たちの学校では、毎朝児童と教師一緒に礼拝を守り、共に聖書を通して神のみ言葉を聞きますが、それによって人間の現実の姿と、その人間をあくまで救おうとされる神の愛を知らされます。それにより神への感謝の気持ちと喜びがわいてきます。その感謝と喜びの気持ちを私たちは祈りと賛美でもってあらわします。

 こういった礼拝を私たちの学校は開校以来ずっと守ってきましたが、これを今後も大切に守っていきたいと思っております。

〈聖学院小学校宗教主任〉
キリスト教学校教育 2003年10月号1面


キリスト教学校教育同盟