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聖書のことば
小澤 淳一

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
(テモテへの手紙2 3・16〜17)

 10月にF1の最終戦が日本で行われました。ものすごいスピードで走り抜けていくレーシングカーを見ながら、「なぜあのようなスピードが出せるのか、恐怖心はないのか」と感じる方もあるでしょう。

 以前ある雑誌にスピードに関わる記事で、レーサーへのインタビューが載っていました。

 記者がした質問は、「なぜあんなにスピードが出せるのか、また、恐怖心はないのか」というものでした。レーサーは、「確かに恐怖心がないといえば、嘘になるでしょう。あのようなスピードが出せるのは、乗っている車に性能の良いブレーキが付いているからです。ブレーキを踏めば、必ず止まるという安心感があるから思い切ってスピードが出せるのです。」と答えていました。

 私たちは、日々の生活は、目の回るようなスピードで動いています。一日に、何度「忙しい」という言葉を心に思い、口にするでしょうか。それは、大人だけではなく、子どもたちにとっても同じです。すべての移動手段のスピードが速くなり、携帯電話の普及と共に、どこにいても連絡が取れ、インターネットによって、地球の反対側の人たちとも、瞬時に情報の交換ができる時代です。ものすごいスピードの中で過ごしていながら、私たちは、「安心感のあるブレーキ」を持っているでしょうか。

 私たちは、理性とか良心、社会的な取り決めなどが、ブレーキとなって、人間の行動を規定してきたのですが、最近の世の中で起こっていることに目を向けると、どうも「安全なブレーキ」を持っているとは言えない状況にあるように思います。私たちの心にブレーキをかける、それも、「安心感のあるブレーキ」とは、それは、聖書の御言葉です。聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」なのです。キリスト教主義学校が大切に語る御言葉に耳を傾け、自らの歩みを整えるために、「心のブレーキ」をしっかりと持ちたいものです。

〈青山学院初等部宗教主任〉
キリスト教学校教育 2003年11月号1面


キリスト教学校教育同盟