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聖書のことば
小西 二巳夫

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2・2)

 上方落語に「子ほめ」というのがあります。ご馳走にありつきたい男が、年配の人に実際の年齢より若く言えば喜び、子どもに実際の年齢より多い目に言えば喜ぶという、ほめ方の極意を伝授されます。知り合いの家の赤ん坊をほめに行った男が「けさ生まれたとはお若う見える。どう見てもまだ生まれてないみたいや」と逆を言ってしまうのがオチです。

 男が赤ん坊の顔を拝みに行ったのは打算です。私も親しい人に赤ん坊が生まれた時にお祝いを持って顔を見に行くことがあります。そこに打算がないといったらウソになります。聖書にも赤ん坊の顔を拝みに行った人たちが登場します。占星術の学者たちです。彼らはそれまで築いてきた地位や財産をすべて残してペルシアから遠いユダヤまで救い主を求めて行きました。一人では何もできない赤ん坊は何も与えてくれません。せいぜい笑顔くらいでしょう。貧しい両親からも期待できませんでした。そこに「子ほめ」の男とは違う打算を超えた生き方があります。

 昨秋、敬和学園は二十六ヵ所で教育講演・保護者会を開きました。この会でおもしろい話を聞くことができました。敬和学園には「おもしろい子どもたちがいる」というのです。「定期テスト前に、自分と反対方向に住む友だちに勉強を教えるために、わざわざその子の家に出かけて行く子がいるんですよね」。「授業中に別の事をしていて、それをとがめられ、ノート一ページに謝罪の文章を英語で書いてきなさい、と指示された同級生に付き合って、放課後それを一緒になって必死に考える子たちがいるんですよね」。そこに打算を超えた生き方を見ることができます。

 敬和学園には赤ん坊のイエス・キリストを拝みに行った占星術の学者たちの延長線上に生きる子どもたちが育っているのです。そういう子どもたちを一人でも多く育てることが敬和学園の使命であり、平和を造り出すと思わないではいられません。

〈敬和学園高校校長〉
キリスト教学校教育 2004年1月号1面


キリスト教学校教育同盟