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信じるとは キリスト教Q&A
神を信じる2
香山 洋人

Q 聖書の教えには共感する部分が多いのですが、「神を信じる」という気にはなりません。クリスチャンが信じているものとはなんなのでしょうか。

A 信じることの反対語は、疑うことです。「信じない」というのは反対語ではなく、少し消極的姿勢だとしておきましょう。信じないということは無視することであり無責任ともいえる態度ですが、疑うことにはかなりのエネルギーが必要で、責任も生じてきます。もちろん、信じないという態度にも一定の思い切りが必要ですが、疑って、反論するためにはさらに大きな努力が必要です。これは、信じるふりをして問いを発せず結局は無責任でいることより、よほど真摯な態度だといえないでしょうか。時には信じることより、むしろ疑うことが積極的な場合もあるはずです。

 世論調査などで来世や神仏、超越的な世界を信じるかどうかを調べる項目があり、その中に「血液型や占い」を信じるかという質問があげられます。血液型であれ占星術であれ、これらのことは非科学的な世界で信仰に類すると考える人がいるとすればそれは誤りです。クリスマス物語にも登場し、太古からあったといわれる星占いが天文学の基礎となったことは言うまでもありませんが、そうした意味からではなく、占いというものは「万物は因果律によって成り立っている」という世界観を前提にした科学的な思考の原点です。自分の星が金星の影響下に入ったからこの期間は恋愛がどうなるとか、鉢植えをこの方角に置くと金銭運がいいとか、血液型がA型だから真面目だとか、手のひらのしわがここまである人は長生きだとか、これらの「因果関係」が万人に納得されるかどうか、それを近代科学が受け入れるかどうかは別として、原因と結果を重視する占いの思考は科学的な世界観、合理的な価値観の母体ともいえるでしょう。

 とにかくこの世界というものは一定の法則によって成り立っていて、しかもその法則を読み解くことができれば、今起こっていることが説明できたり、これから起こることが予測できたりするという考え方は魅力的です。それは合理的で、説明がつき、疑う必要がありません。ですから、科学とは正反対のように思われている宗教の世界でも、ここにお参りすれば病気が治るとか、善行を積めば天国に行けるとか、何代前の先祖を祀れば祟りが消えるとか、大変わかりやすい方程式をいくつも持っています。そして多くの場合、それが人生の指針になったり、安心を約束したりもするのです。確かなものに頼りたい、明確な規則に従いたいという思いは、因果応報的信仰に限らず多くの人が持ち合わせている考えです。しかし、手軽な方程式を見つけてそれに寄りかかって安心していこうとする態度は、一見信仰そのもののようではあっても、疑いもせず信じもしない傍観者的態度と同様に、無責任で冷めた態度といえないでしょうか。

 信じるとは疑うこと、言い換えれば問い続ける態度です。信じるとは因果律や手軽な方程式に依存することではなく、自ら一歩を踏み出す経験をいうはずです。初代教会のある指導者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉を残しています(ヘブル書11章1節)。この表現に従えば、信じることの前提に、こちら側に何らかの「望み・希望」が必要とされています。希望は、ひとつの原因によって当然生み出される結果のようなものではなく、いまだ実現していない何かです。自分が何かを望んでいる、希望すべき何かがあるとき、そこから初めて信じることの可能性が開かれます。個人的な苦しみからの脱出、平和な世界の到来、貧富の差の解消、偏見や差別がなくなること・・・。これらは、因果応報では説明ができず、与えられた方程式によっては解くことのできない問題です。これらを、祈りの課題といってもいいかもしれません。信じるとは、そうした望みをあきらめないこと、祈りの課題を持ち続けることといえるでしょう。

 自分の弱さや悪の現実を直視しながらも、決して絶望しない。これは苦しい決断で、かなりのエネルギーが必要です。それでも問い続けることでしか与えられない答え、願い続けることで開ける世界がある。すべてをぶつけて挑むことのできる相手が神です。そして格闘の末、闘うことを放棄した自分に与えられる慰めと希望の言葉があるはずです。

〈立教大学チャプレン〉
キリスト教学校教育 2004年3月号4面


キリスト教学校教育同盟