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聖書のことば
中山 仰
 
 「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」
(ヨハネ20・13-16)

復活の朝マグダラのマリアは一人主イエスの墓の前にいました。そこへ復活のイエスが顕れて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問うとマリアは、園丁と勘違いして遺体を引き取りたいと訴えます。愛するイエスが目の前に顕れたにもかかわらず、判別できなかったのは激しく泣いていたからという理由も文学的には美しくもありますが、彼女の求めていたものは遺体であり、亡骸でしかなかったために目の前に主イエスが復活なさっても見えなかったのが現実でしょう。彼女が気づいたのは、「婦人よ」という三人称の呼びかけから「マリアよ」という親しい呼びかけに変わったときです。

 ここを読むとき私は生徒たちとの関係が、このように近い距離になっているだろうかと考えさせられます。「誰々さん」と姓名を単に呼びかけるだけでなく、その呼びかけの中に日常の学校生活における信頼関係が含まれていなければ、人格と人格の触れ合いとは程遠いものだからです。主イエスは、私たちのために十字架にまで架かられご自身の命をもって私たちの罪を贖い、復活の命による希望を分け与えようとされます。マリアは主イエスに対して「ラボニ(先生)」と応答します。私たちはイエスさまのようにはなれるはずはありませんが、せめて生徒たちに対してキリストの香りを放つ役目が少しでもできたらと願っています。

 復活したイエスを確認して歓喜しつつマリアはすがりつきますが、イエスはいつまでもそうさせません。むしろ自分は天に上るので弟子たちにこのことを伝えなさいと彼女に命じます。この使命に基づいて各地にキリスト教学校が建てられています。それぞれの教科や分掌、クラブ活動などを通してこの神の愛、キリストの生ける命の希望を伝える目標を持っていることは何という幸いでしょうか。

 
〈清和女子中高校宗教主任〉
キリスト教学校教育 2004年4月号1面


キリスト教学校教育同盟