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第四十五回中高研究集会 
情報・消費社会における学校と教師の役割
          
 -「共に生きる関係」の中で子どもを育てる-
高橋 勝
 
はじめに 
 横浜国立大学で教育哲学を担当しております高橋でございます。本日は、キリスト教学校教育同盟・第四十五回中高研究集会にお招きをいただきまして、大変光栄に思います。私は、教育哲学の中でも特に教育人間学を専攻しておりますので、本日は、その視点から「情報・消費社会における学校と教師の役割」についてお話してみたいと思います。

 私は、日本の青少年の問題行動の質がある時期から大きく変化してきたのではないかと考えてまいりました。それは、ほぼ一九八〇年代以降、日本が情報化と消費生活化という二つの大きな特徴をもった社会に突入してきたことと深い関係があります。勿論、情報化と消費生活化は、私たちの生活を便利で快適なものにしてくれたということは、誰もが認めるところであります。しかし、同時にそれは、見えないかたちで、大人や子どもの生活感覚や生活意識を、理想的なものから功利的なものへ、協働的なものから個人的なものへ、生産的なものから消費的なものへと、大きく変容させてしまったことに気づく必要があると思います。

情報・消費社会の成立
 一九七〇年台半ばを境にして、日本は、第二次産業を中心とした重工業型の社会から、第三次産業を中心とした情報・サービス型の社会に転換を遂げてまいりました。それは、「知識と生産労働」を基盤とする生活から「情報と消費」を基盤とする生活に移行してきたことを意味しています。その結果、大きく言って三つの傾向が顕著になってまいりました。

 第一に、経済のグローバル化の進行とともに、ますます地域共同体が崩壊し、家族の絆も弱体化してきた結果、共同体の規範から自由になった「消費する個人」が誕生しました。第二に、その結果、「自由・選択・自己責任」というように、「自己責任」を強調する消費型の個人主義が広まってまいりました。しかし、これによって、社会的弱者への眼差しが遮断される結果になりました。第三に、学校教育に対しても、「みんなで創り上げる学校」から「消費者に選択される商品としての学校」という感覚に変わりつつあります。情報・消費社会の底流をなすこうした感覚が、敏感な青少年の間に広まらないはずはありません。

情報・消費社会を漂流する青少年 
 一九八〇年代以降の日本の青少年の住む世界の特徴を、次のようにまとめることができます。@「共に創り上げる文化」が消滅して、「提示されたメニューの中から好きなものを選ぶ文化」が広まりました。A大人と子どもが共有した「貧しさ」という重いリアリティが消滅するとともに、情報と映像メディアの広がりの中で、何がリアリティか分かりにくい状況が生まれました。B青少年が、協働する生産活動から排除され、ますます消費の世界に追い込まれる結果となりました。C消費文化が醸し出す新しいモードに素速く乗り(ノリがよいことが善)、流行とともに漂流する感覚が浸透してきました。Dしかし同時に、彼らは消費生活だけでは充足できない「心の空洞化」に常に苛まされる不安定な精神状況に置かれるようになりました。

 かつて日本の戦後復興と高度経済成長の時代には、「貧しさ」、「児童労働」、「農村共同体」は克服すべき対象であり、子どもは、労働から解放された個人として学校に通い、学習だけに専念できる状態が望ましいとされました。いま「労働から解放された」子どもたちは、「生活者感覚」を失い、他者との協働生活を失い、学ぶ意味や生きる意味そのものを見失いかけているように見えます。これは、まことに皮肉な文明の逆説であります。

消費社会を乗り越える学校 
 こうして、ほぼ一九八〇年代以降の学校では、自由、選択、消費という消費社会の感覚に浸りきった子どもが引き起こす新しい問題行動への対応に追われてまいりました。校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊、ひきこもり等の諸現象の背景には、協働生活の場としての地域社会が崩壊し、家族の絆もすっかり弱体化して、社会規範が身に付きにくくなった子どもの状況を見て取ることができるように思います。しかし、J・H・ペスタロッチやJ・デューイの言葉を借りるまでもなく、学校とは、もともと協働生活の場であり、community lifeの場であります。自給自足の家庭生活こそが学校の原型であり、子どもは、その中でごく自然に衣食住の基本的な作業(Arbeit)を行いながら3R’sの基礎を養い、自立した協働生活者に成長していくと考えられていました。生活から乖離した情報や生産活動から切り離された消費などは、家庭生活では全くあり得ないように、学校においても、生活の必要から獲得した情報や生産活動の結果として生まれた消費でなければ、意味がありません。

「生活者感覚」を学校で育てる 
 いま日本の青少年は、膨大な情報量とシャワーのように降り注ぐ強い消費刺激の中に置かれていることを、私たちは、まず理解する必要があります。そこでは、人と人をつなぐ養分(愛情や仲間意識、連帯感という水分)が次第に乾燥されて干上がり、カラカラに乾き切った孤独な少年少女が、喉の渇きを癒すために、街頭やメディア空間を徘徊するという現象が多く見られます。「出会い系サイト」や「援助交際」等も、その一つの現れではないかと私は考えています。それでは、いま教師にできることは何でしょうか。

 それは、学校の中に協働生活の要素をしっかりと回復し、授業であれ、教科外活動であれ、仲間と一緒に問題を発見して、それを自分たちで解決していく「生活者感覚」を取り戻すことだと思います。生徒が、自然や他者、事物から離れて孤立するのでなく、自然の大地で生活し、他者と助け合って働き、必要な事物を自分たちで創り出していくという学びの原点に立ち返ることが必要です。いずれも、情報・消費社会の論理の逆を行くものばかりで、最初は生徒の抵抗感も大きいと思います。しかし、そうした協働生活の文化が、学校の隅々に染みこんでいるならば、生徒たちは、生きること、学ぶことの意味を自然に体得し、情報・消費社会のメリットとデメリットをしっかりと見分けてゆける批判的な精神が育つようになると考えます。ご静聴を有難うございました。

〈横浜国立大学教授〉
キリスト教学校教育 2004年5月号2面


キリスト教学校教育同盟