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女子教育とキリスト教
田中 弘志
 女子学院の草創期に活躍し、多くの人に慕われ、尊敬された女性宣教師にマリア・ツルー(Maria T.True)という人がいる。彼女は柔和で思慮深い人柄である一方、意思が強く、積極的で意欲的な女性であった。ツルーは長老教会の牧師であった夫を結婚後わずか五年で病気のために亡くし、米国婦人一致外国伝道協会の一員として一年間中国での伝道事業に携わった後、一八七四年(明治七年)に来日した。最初は共立女学校(現・横浜共立学園)で教えるが、一八七六年(明治九年)には女子学院の前身の一つである原女学校に移り、その後新栄女学校、桜井女学校でも教えながら、「女子学院」の土台を築いた。また初代院長の矢嶋楫子に大きな感化を与えた人物としても知られている。

 このツルーは常々女生徒たちに対して、志を高く持つこと、そして高い理想の実現のためには真の力を養成する不断の努力が必要、と訴えていたようである。その際、「己の務めを怠り、己の為さざる可らざる事をなさずして送るは尤も大なる苦痛」というメレー・ライオン(Mary Lyon)の言葉を自らの信条としてよく引用していたらしい。一八八一年に桜井女学校が麹町中六番町に新築・移転した際、ツルーは、「私はマウント・ホリヨーク・セミナリーが生んだような貴重な果実をこの学校が生むことを期待しています」と桜井女学校に大きな夢を託していたと言われている。

 一八〇〇年代の前半には、アメリカにおいても少女たちに対して開かれている高等教育機関は極めて限られていたが、男子が学ぶ学校に決して引けをとらない、幅広く質の高い教育の機会を女子に提供することを目指して、一八三七年にマサチューセッツ州にマウント・ホリヨーク女子神学校を開設したのがメレー・ライオンであった。理想の学校の開設に向けてあらゆる困難を跳ねのけながらがむしゃらに邁進していたメレー・ライオンはある時、「ときとして私の骨の中には情熱の火が閉じ込められているように思えることがある」と洩らしたことを伝記は伝えている。ある統計によればマウント・ホリヨーク女子神学校は、創設からの五十年間で十八の国々に合計百七十五人の卒業生を宣教師として派遣しているが、マウント・ホリヨークの卒業生でなくとも、明治期に来日した多くの婦人宣教師にとって、このメレー・ライオンはすぐれたお手本であると同時に、大きな刺激になっていたことは想像に難くない。

 「東洋のメレー・ライオン」と呼ばれたツルーは桜井女学校内に日本で初めての幼稚保育科や看護婦養成所を設置したほか、学外ではあるが女性のための療養施設として衛生園を創設するなど、文字通り日本の女性たちの生活改善と教育のために生涯を捧げた祈りと実行の人であった。自律の精神で自己を高め、自己犠牲と奉仕の精神で愛をもって他者に仕える、そのような婦人宣教師たちの生き方は、明治期の日本の女性たち、特にミッションスクールで学ぶ若い女性たちに多大な影響力を持ったが、その精神は今日のキリスト教学校の女子教育に間違いなく引き継がれているし、現代のコンテクストの中で改めてその意義を確認し、問い直す必要がある。

〈女子学院院長、同盟理事〉
キリスト教学校教育 2004年6月号1面


キリスト教学校教育同盟