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『緑も深き』
わが心の故郷…鎮西学院

進行・森 泰一郎(長崎ウエスレヤン大学長)
構成・山口 聖孝(学校法人鎮西学院広報課長)

:本日は「鎮西学院の思い出」、「鎮西学院時代に感じた学校の精神・価値観」、「現在のお仕事のうえで鎮西学院で学んだ精神・価値観がどう生かされているか」、「鎮西学院の将来展望に関して」という順で話を進めて行きたいと思います。

 林田秀彦学院長は、戦後すぐの鎮西学院高校第一回卒業生になられます。

 笹森先生は、一九五四年、第六回卒業。橋本先生が一九五五年卒業。市川先生が鎮西学院中学部を一九五七年卒業で、市川先生が少しお若い世代ですね。私は高校、第十五回の卒業です。

「聖家族」の中で過ごした日々

市川:
僕の場合は、鎮西学院中学部に入って、例外的に寮生活を認められて、学園内の寮に入れていただきました。

 そもそも鎮西学院というのは、諫早市の九万坪の元ゴルフ場だった中井原の丘の上にクリーム色の校舎が点在して、そこには、牧場もある、茶畑もある、イモ畑もある。そしてその中に院長以下の先生方の宿舎があり私たち生徒の寮もある。

 寮生の朝は、有志による早朝の祈祷会から始まり、自分たちで作ったバター、パンと紅茶で朝食をいただいて、牧場を駆け抜けて学校の校舎に向かって走る。終業の鐘の音とともに、自宅通学の生徒達は、丘を下って帰るのですが、私たち寮生は、また学校の敷地内にある寮に戻る。

 森幹雄先生のお宅に招かれて、そこで、先生の好きなロシア文学の話を聞いたり、演劇の話をしたりしました。時に恋の悩みなんかを聞いていただいたりもした。現在活水大学で教鞭をとっている山口哲生教授と私は同級生なんですが、彼が恋をすると、森先生は「『若きヴェルテルの悩み』を読みたまえ」とおっしゃる。僕が相談にいくとどうしたわけか、トルストイの『復活』を渡された。読むと、女を裏切る男の話なんですね。先生はよく僕を見ていたんだなあ(笑)

 そういう日々の中で思春期を過ごしました。私の人生の中の神話の時代ですよね。それは学校というよりは、聖家族。

 私たちが中学生のときは、笹森先生、橋本先生が高校の先輩でいらして、YMCA活動などを熱心にされていたのですが、私たちの目から見ると、教師も先輩たちと同じような格というか、仰ぎ見るような存在で素敵な先輩たちだった。教師と同じように頼りになる先輩たちという目で見ていました。時には兄のようでもあるが、声をかけられるとどきどきするという存在でしたね。ミッションスクールの精神の中でその日々がありましたから、僕にとっては、集団の家族、いい聖家族の中でいい思春期を過ごしたという思いがあります。

 僕は今脚本家という仕事をしていますが、その芽みたいなものはこの学園の中で培われたなあと思います。クリスマスや慰問活動などでは、演劇活動をしていましたしね。森先生のご指導は、「演劇を見せるということは、伝道なのだ」でした。諫早教会の林田牧師のもとから、いよいよ上京して行く時には、「あなたはデアスポラだ。散らされたものとして行くのだ」という言葉をはなむけにいただいたんです。言葉は生涯を呪縛しますね(笑)他のことは忘れてもそういう劇的な場面での一言は忘れない。僕の人格形成のすべてが鎮西で培われ、鎮西から旅立っているという思いがあります。

 今こうして、幾星霜過ぎて鎮西の理事にいるというのは、僕は自然な感じがする。この対談も久しぶりに兄弟たちと再会しているという気持ちで臨んでいるんです。このメンバーで集えたというのは、やはり、神の導きだと思わざるを得ない。「人生はドラマ」というならば、ちゃんと起承転結となっているという(笑)感じで今日はほんとにうれしい。

戦後の混乱期をきり拓く 教員の活気と面倒見のよさ

橋本:私が鎮西学院中学校に入ったのは、一九四八年、戦後まもない混乱期ですね。新制中学はできていたのですが、レベルが低いだろうということで、長崎から諫早に移転した鎮西学院というところでは、いい教育、レベルの高い教育をしているらしいと親が目をつけて(笑)、入学することになったのです。当時、戦後の混乱期で、子供心にも精神的な落ち着きのなさというのを感じていました。

 入学してみたら、海軍病院のあとのおんぼろの校舎でしたが、新しい時代を作っていこうという先生方の活気がありました。あれは、われわれ若者にとっては、非常に大きな刺激でした。あの頃、中学、高校の間にはあまり壁はなくて、聖書研究のグループに当時高校生の林田先生が一緒におられて、刺激をいただきました。

 鎮西学院で教えられた大きなもの、一つは、キリスト教。もう一つは、当時珍しかったアメリカ人宣教師の先生、日系二世のアメリカ人の宣教師の先生方に、英語を勉強するおもしろさを教わったことです。加えて聖書を勉強するおもしろさとを感じて、のめりこんでいったわけです。つまり、鎮西で人生の方向を教えられ、反抗することもなく素直に教わった通り歩いてきた。

 私の場合は、健康上の問題で、高等学校を卒業するのに四年かかりましたけれども、それはそれで、いい経験をしました。先生方がどれほど熱心に生徒の面倒をみて下さるか…。鞄をしょってそこの坂道を登ってくるときにね、僕は咳が出たりして早く歩けないんですね。ほかの生徒達にどんどん追い越されていく。すると先生がね、僕の鞄を抱えてくれて、「後からゆっくり来いよ。教室に鞄置いておくからな」と言ってくださるんです。そういうことが何度もありました。それは今思い出しても本当にうれしい思い出です。

右手にソロバン、左手に聖書

笹森:私は、一九四八年に中学校に入学、五四年新制高校の第六回卒業式。中学校の三年間は、当時でいう「汽車」通学をしていました。石炭で走る蒸気機関車ですね。長与のトンネルの付近の坂を途中で上りきれなくてずるずる後退したりしながら(笑)、一時間以上かけて通うというものでした。その通学列車の中には、軍隊帰りの上級生が多かったんですね。十二歳か十三歳の私から見たら、とても大人で怖い存在だった。戦争をひきずった、戦後をひきずった雰囲気がありました。

 その頃の中学校の校舎は、夏は暖房、冬は冷房完備(笑)雨が降れば傘をささなければならないような、すごい校舎で、とても今では信じられないかもしれませんが、それでも、ちっとも苦痛ではありませんでした。五十年の年月が記憶を昇華させてしまったのかもしれませんが、当時、「こんなオンボロ校舎の学校に入るんじゃなかった」などと後悔したことは一度もなかった。つまり、建物、入れ物ではないんですね。皆さんがおっしゃっていたように、中身、人間関係の濃さ、親密度が、多感な少年時代から青年時代に移り変わる、人格形成で一慎重な時期に、多大な影響を受けた。先生方は熱心で、授業が面白かったかどうかは覚えていませんけれども(笑)とにかく、学校が楽しくて楽しくて仕方がなかったという思い出がありますね。

 やはり、一番は、先生方の熱心さだと思います。中学時代も高校時代も担任の先生、各教科の先生、宗教活動の先生、とても熱心な先生でした。高校時代の担任は園田先生。宗教主任の宮崎先生。宮崎先生は、宗教主任でありながら、商業科の担任もなさっていました。「自分の人生の師だ」という同窓生がいるほど担任の生徒にも感動を与えた。

 宮崎先生の熱心さといえば、ジュニア・チャーチを毎週指導なさったこと。当時の諫早教会で、高校生のための礼拝が必要だということで、大人の礼拝が始まる一時間前から先生が自ら志願して礼拝をなさったことなどがあげられますね。私も指導を受けました。当時、私は貧乏学生ですから、寄宿舎から片道一時間、諫早教会まで歩いて通いました。これは、宮崎先生の熱心さに引きずられた結果だと思います。担任の園田先生の熱心さというのは、一人一人の個性を伸ばそうということを絶えず考えたもので、夏休みの補修の時間を自ら設けてくださったりしました。園田先生、宮崎先生、秋永先生、いろんな先生のお宅へお邪魔したことがあるのですが、家庭での人となりや生活から学校での熱心さとはまた違ったものを教わったような気がします。先ほど市川先生が「聖家族」とおっしゃいましたが、まさにそういう感じを私も持っております。

 私が鎮西学院で学んだことは、実利的なことではなくて精神的なこと、たとえば、学問の奥深い世界を垣間見たような気がします。大学は理学部に進んだのですが、当時、そこを卒業したからといって、何で飯食っていくのかわからないといわれたような学部をためらわず選んだ原因はその辺にあるんじゃないかと思います。事情があって学問の道に進むことができませんで、結局、人生の職業生活の後半は会社のマネージメントをしていました。それは、志と反したのか、あるいは、そうい過程を経たからか、マネージメントの仕事、部下を管理するとか決裁をするとか新製品のためのマーチャンダイジングするなど面倒くさい仕事を一生賢明やれたのではないか。ビジネスを超えた深いところにある精神的なことを培うことができたんだという気がします。右手にソロバン左手に聖書と(笑)。このような二足のわらじのバランスをとれるようになったのではないかなと思っております。 

 図らずも四月一日から母校で、高校の責任者として働くことになりました。荷が重いと思いながらも引き受けることになったのは、先ほどの市川さんのお話にあった、家族の再会ということだったのだと、今自分で納得しています。欧米では、ファミリーユニオン=一族の再会という慣習がありまして、ふだんはあちこちに散らばっている一族が何かあると集まる。たとえば結婚したのを事後報告するような形で一族が集まると。何か今回のこともそういう感じですね。散らされたものが時を経て集う、家族の元に引き寄せられたという感じがいたします。そういう精神的なつながりをもつことができたのが、鎮西学院の中学・高校だった。そういう意味で自分の人間形成に重要な時間だったと思います。

原爆〜長崎から諫早へ〜聖書が与えてくれた生きる力

林田:
「緑も深き」という言葉は、賛美歌のメロディですが、市川先生が鎮西学院をバックに撮られたテレビドラマを思い出すのです。市川森一さんの思いがああいう形で表されてきた、あのドラマを東京で見た時に、私たちもいつの日か、緑も深きあの丘に集まって、一緒に見上げるものがあるかも知れないなあとなんとなくそういう感じがしたのです。だからこそ、あのドラマが日常に印象に残ったんですが、それが今現実化している。先生方のお話を聞きながら、今日この時のことが、神様のご計画だったなと、神様が生きて働いておられるという実感をしみじみと味わっております。

 私は、戦後、北朝鮮から引き上げてきまして、故郷の諫早に帰ってきた。ちょうどそのときを同じくして、鎮西学院が原爆の廃墟から立ち直るために、諫早に移ってきたんですね。私は、漠然と諫早高校に行くものだと思っていたのですが、「入れません」の一言で、門前払い。親戚が「鎮西学院という伝統あるいい学校が長崎から移ってきている」と教えてくれて、入学することになりました。まったく今まで経験しなかった世界に触れた。本当にそれは、おそらく諫早の人たちも経験しなかった世界が鎮西学院にあるんじゃないかなと思います。つまりキリスト教という深い文化をもった一画がこの諫早の地にやってきたという圧倒的なものでしたね。私が一番衝撃を受けたのが、聖書なんです。宮崎先生などから聖書研究を勧められたのですが、最初はマタイによる福音書第一章を読んだとたんに、「これはアメリカの暗号文か?」と思ったくらいわけがわからなかったんですよ(笑)。それから、聖書の奇跡物語に入っていったら、これが面白くてね。イエス・キリストという方が海の上をトントンと歩いたと書いてある。今までそんなこと、どの本にも書いてなかった。これは面白い本だと思った。そして、こういう話を宮崎先生、千葉院長先生がまじめに信じているんだというのが、不思議に感じたのです。大の大人、しかも立派な先生が信じているというのは何故だろうと思ったのが、私が聖書にひきつけられた理由です。聖書を学んでおりましたら、そのうちに市川森一さんやほかの皆さんとの交わりができてきた。

市川:僕が皆さんに見せるためのちゃんとした芝居の処女作というのは、この鎮西学院の七十周年創立記念の「この道の妙えなる灯を」というもので、これがまさに初めての戯曲でした。内容は、二ドル銀貨の話から、千葉院長がこの地に学校を再建して、先生が原爆症で亡くなるというあたりまでの長編の芝居でした。この芝居の演出は林田先生がやってくださって。東京仕込みの厳しいものでしたが、一方で、芝居の楽しみを僕に教えてくださった。

林田:そうでしたね。市川ドラマに引き入れられて夢中になりました。

 以前に笹森卯一郎博士による聖書の終末論についての説教を呼んだことがあるのですが、「ハレー彗星が現れた。このことを通して、私どもは、歴史の終末を認識する」というような内容の説教だったと思います。そのときに、私は、初めて聖書に終末論があるのだということを知りました。ここにいらっしゃる笹森先生は、そのお孫さんになるわけですから,鎮西学院の思い出の中には一人一人の方はもちろんのこと、その方々の背後にあるご家族の肩、市川さんが言われる「聖家族」ですね。鎮西学院は、生きる力を与えてくれたなあと思います。どんなことがあってもめげないぞという生きる力を与えてくれた学校だと思いますね。

橋本:中学二年だと思いますが、まだ、下のおんぼろ校舎のときでしたか、千葉先生が(原爆症で)亡くなられて、その時に来ておられた宣教師のスミス先生という方。彼が大統領に抗議の手紙を書いた。その手紙が長崎新聞か何かに載り、教室で話題になりました。自分たちの政治の指導者に対して、文句をいう、批判するという人たちもいるんだ、日本人のように命令一下で一斉に動くというのではない文化持った人たちがいるということを鎮西で学んだ。その後社会に出て、複雑なよの中で筋を通すという、人の命の大切さとかにつながる教えを得たと思います。

祈りと行動。それがミッション

市川:鎮西学院が他の学校と大きく違うのは、聖書と酪農という二つの学科があったことでしょうね。僕はこの二つの科目で人格形成をしたと思っています。

 聖書の授業は、宮崎先生でした。先生の授業がとても素敵で、その影響で、洗礼も受けたんです。やっぱりキリスト今日というのは出会いですよね、誰と出会うかというのが大きな問題。

 酪農。豚に餌をやったり、牛の世話をしたり、バターの作り方を教わったりしたのも新鮮でした。作ったものをいろんな人のところへ分けてあげていた。

 僕は、後にドラマ界に行きましたけれども、ドラマもまた生産するもの。多くの人たちの心に何かを伝える、その伝達手段として、ドラマ、映画、演劇はあるんだと。何のために、何を伝えればいいのかというようなことも僕はこの学校で教わったと思います。
 
 ここへ来るまでは、キリスト教とは、祈るだけかと思っていたら、そうではなくて、むしろ行動なのだと、ミッションというのは祈りと行動が伴っているものだということを教わったんですね。聖書の授業だけではなく、酪農する、演劇をする。そしてそれは、このことによって初めてものを作る喜びを味わうわけです。われわれが演劇を作って、刑務所にもっていけば受刑者たちが涙を流してくれるなど、われわれが動けば人が感動するという体験。それは、聖書で学んだものを演劇なら演劇という形をとり、その方法で伝えていくとちゃんと帰ってくる。「これが、実践なんだ、行動なんだ、ここまでやらなければミッションじゃないんだ」ということを学んだ。僕は、学びかつ動け、行動しろというところまでがこの学校のキリスト教教育のあり方だと思う。

 いろんな先生方が熱心ということは、積極的に生徒たちに関わっているのだから、お前たちも動けよ、といわれていることだと思うんですね。そういう先生方の下でキリスト教を学んだことが、よかったと思います。

橋本:私が高校三年生のときに、鮫島先生が院長として来られて、聖書の授業で宗教哲学のようなことをなさいました。そこでヘーゲルとか、シュライエル・マッヘルというような名前、思想の特色を紹介されて、非常に刺激を受けたんですね。知的なレベルの高い授業。高校生の自分がどの程度わかったのと思うと今振り返って考えると非常にもったいない話だと思うんですけれども、でも、それは、高校生なりに非常に面白かったと覚えています。そういう刺激を今の先生方もがんばってやってほしいなあ、と思うんですね。我々現場で若い人と接していると、彼らの関心をすぐ呼びそうな「いかりや長介がどうした」というような話に流れやすいんですよ(笑)。そうではなくて、基本の思想の歴史だとか、功績をあげた人たちの成果をもっと紹介してあげれば、と思うんです。それは、一人二人にしか訴えないかもしれない、何人が関心持つかわからないけれども、いつか芽が出るかもしれないと思うんですよ。

市川:今の教育は実践、行動が足らないと言われますよね?だから、祈りかつ行動。行動は、ミッションスクールの場合は、奉仕活動、社会活動と言い換えてもいい。形の上では、ミッションスクールは自然にそういう教育をやってきているでしょう?くやしいけれども、たしかに「個の尊重」をはきちがえて、先生も生徒も身勝手な教育現場になり、教育の崩壊の危機が叫ばれている。それで、もう少し愛国心などを育てなければ、と教育基本法の改正を訴える人もいる。キリスト教教育の理念からいえば、教育基本法の改正なんかいらないんですよ。少なくともミッションスクールはあわてなくてもいい、そんな改正には関わる必要はないと僕は思う。

林田:全くそのとおりです。l

橋本:ここに東山手時代、竹の久保時代、現在と三つの校歌があるんですが、竹の久保時代というのは、戦争中で、「鉄砲隊の益荒男が」などいう(笑)勇ましい歌詞が並んでいるんですがね。そんな三つの時代の校歌に共通する単語は何かというと、「自治敬虔」と「敬天愛人」。「敬天愛人」は人を知り、自分を愛し、神様を敬う。「自治」というのは命令で動くのではなく自分たちでやろうということですから、こういう単語がが戦争中に残っていたというのは面白いですなあと思いましてね。

笹森:結局一言でいえば、「なんじの若き日になんじの造り主をおぼえよ」とだと思うんですよ。鎮西学院に限らず現教育の現場で、どうやって人間形成をしていくかというと、人間形成をしていくプロセスの中で他人との関わり、先生との関わり、家庭との関わり、地域との関わり、そういう関わりの中で自分を磨いていくんですけれども、それは水平次元の話ですよね。もうひとつ垂直次元の話があって、それは、神との関係ですね。幸いにして鎮西学院というのは、建学の精神に「神との関わり」をすえていますから、自分自身のことでいえば、それを自然に素直に学ぶことができたと思いますね。あまり、悩みもしないで、深く考え込むこともしないで、素直に神との関係をいわば刷り込まれて今日に至っているということだと思うんですね。

 先ほど問題提起がなされたミッションというのは行動を伴うのだということは、まったく賛成です。具体的には、その時々、場所場所で、どういう形で現れるか、どう工夫していくか、どうみんなで考え、どう手を携えていくかということだと思います。まずは、自分だけのことではなくて、他人との関係を大事にするということから、ボランティア、奉仕の仕事とかが自然に出てくるような現れ方が必要。そういうバックグラウンド、後押しするような舞台装置を作っていかなければならないのかなと思います。

林田:鎮西学院が原爆で、まったくの廃墟になって廃校かといわれていたのが、諫早のバラックを中手がかりに復興してきた。そのときに入学を許されていた私達は、文字どおり、院長先生以下、教師も生徒も一緒になって汗水流して働くというところから、学校づくりが始まったんですね.これは、今思い出しても非常に得がたい体験です。グランドを作ったり、校舎の雨漏りを直したり、川辺から石を拾ってきて道つくりをした。教師と生徒が一緒になって、生活と学問が結び合ったということが、貴重な体験だと思います。それ以来、私自身のキリスト教教育観は、あえて言葉にするとしたら、体験学習なんです。学問が体験化され、体験が論理化されるという形でキリスト教教育が私の中で培われてきましたから。どういう場合でもイエスキリストがともに働いてくださるという聖書の言葉がこういう形で生かされていると思います。皆さんがおっしゃったように、働くことの喜び、もっともっと汗を流すということ、そしてそれが祈りである。

 私の中で、ミレーの描く「晩鐘」はじめ「種まく人」などの風景がこの緑深き丘にイメージされているんですね。働いて祈り、祈ってみんなで食事をし、祈って学びあうというような、鎮西学院が持っている精神的な風景というのはそういう形で表されるなあと主運です。私自身も今日までそういうものを大切に教育観の中で位置付けてきたといえると思います。

市川:一元的な生き方から開放されるということは、いくつかの価値観でまわりを、そして自分自身を見ることができるということが僕の中では一番大きいですね。もう一つの目で自分を見ることができるというのかな。キリスト教、つまり宗教というものに多少かかわったことで、魂というものを別個に幽体離脱させることができるようになった。そのギスギスする自分をもう一人の自分がふっとみることができる訓練をしたという気がします。カソリックの神父さんの霊想訓練に近いものかもしれません。ドラマを書くという仕事はそんなものだ思うんです。まったくの別世界をつくんですから。宗教というのは、そういうことができる力があるんじゃないかと。いろんなことをして生きていけるけれども、多少二重に人生をみることができるようになったのは、キリスト教のおかげだと思います。若いときに宗教に接することができて、目に見えないものも在るという認識を得るというのはすごいことでしょう?そうか目に見えるものだけにとらわれてちゃいけないんだな、目に見えないことこそ永遠なんだと教わったりした。このことは、後のドラマづくりには多いに役立ちました。

橋本:キリスト教的なものの見方、市川先生がおっしゃったような、おぼれそうになったときにもう一つ別の見方があるという、相対化して自分を見るという、まなざしを与えられたというのは大きい点です。ただ、キリスト教主義の学校ですけど、みんながみんなキリスト教になじむというわけでもない。そこで、いろんな卒業生の方々を高校のクラスの中に反映させるような企画を考えたらどうか、と思うのです。私が好きなNHKの番組で、「ようこそ先輩」という番組があるんですが、ある卒業生が母校の小学校に行って、実社会の中で先輩がどういうことかをしているかとか、昔の学校と今の学校がどう違うか話したり、課外授業的なことをやっている番組です。これを高校生に対してやってみてもいいんじゃないかと思うんです。例えば、農業をやってる先輩たちを呼んで、生活をしていく上での面白さとかしんどさとかを高校生にフィードバックさせるようなしくみを考えたらどうかと思います。二,三ヶ月に一回くらいやるというのは面白いんじゃないか。

高大連携による国際交流と原爆の経験から生かした平和教育

笹森:言うまでもないけれども、建学の精神というのは厳として残る。今後、4代目の校歌を作るのにも残ると思い増し。全然変わらない部分と、どんどん豹変する部分があっていいわけで、時代と社会の要請に応えての変化というのがなければいけないと思う。とはいっても学部やカリキュラムは簡単に変えられないというのはあると思いますが、たとえば、高校にも英語科というのがあっていいんじゃないか。もっといえば、長崎という地域性、ウエスレヤン大学がもっている強みということを考えてもいいと思います。

展  望

市川:林田院長、笹森校長、大学は森学長、それに橋本理事、という配置。諫早の駅前に鎮西学院が誕生したのを一つの始まりだとすれば、ちょうど一巡して、その終結がここに来ているという気がしています。これから何かが始まっていかなきゃいけないし、ここからはじめようというための導きという気がする。このメンバーで何もできなければ鎮西は滅びるとすら、私は思っているんです。何か終わらせてもらいたい、そして何か始めてもらいたい。ちょっと抽象的なんですが、それを神はお望みだろうと。

 すでにこの動きは始まりつつある、何か大きな改革がね。ちょっと次元の低いことをいうと、精神的な効果も含めて、校歌もつくりかえたらどうです?ある種の気分転換も含めて。愛校心ばかりじゃなくて、世の中と関わる歌になってもいいんじゃないかな。

 ミッションスクールというのは、多くの人たちの人生の永遠の思い出になる場所だと思うんですよ。残念ながら神と共に歩むというのを自覚して生きている人は多くはないかもしれないが、あの時、確かに私たちは神とともにいたと、思い出すだけでも、随分違う人生になると思う。そういう意味でいえば、ミッションスクールは、「ミッションスクールの風景」というのを大事にしなくちゃいけない。ミッションスクールは、美しい外観にとらわれなければならない。バラックの校舎を「諫早のぼろ校舎」とみなさん、懐かしそうにお話になるからそれはそれで、絵になっていたんだと思うんですよ。風景を美しくする、というのは物質社会に対する反抗になる、景観を守る、自然を守る、空気を守る。神と共にいる、緑も深き若葉の里、という歌をを歌って、その歌にふさわしい風景を守ってほしい。

  長崎のミッションスクールとしては、アジアとの国際交流。それに伴って英語教育に力をいれてほしい。さらに夢物語をいえば、中高一貫教育をやってほしい。キリスト教教育は十二、三歳頃からやったほうがいいんですよ。自分の体験からいっても、高校になってからでは遅いという気がします。ミッションは聖家族だといいましたが、付き合いが長いほどいいんですよね。ミッションスクールは。二代三代、その学校にいるっていうことが学校の空気をつくっていくわけでしょう?学生もできるだけ永く携わったほうがいい。大学もあるわけですから、高大一貫してつながりをもっていく。あらゆる名門校がそうであるように、長崎ウエスレヤン大学に行くために高校に入るというようなよびかけをもっと自信をもってする必要があるんじゃないかと思います。

橋本:大学と高校のカリキュラム上のつながりをもっともつといいと思うんですね。もうひとつは、課外活動。大学では社会福祉の科目があり、施設や病院で実習をしますね。そういうときにも、高校生がボランティアで参加することができれば、先輩とのお付き合いができるとか広がっていくと思います。

林田:鎮西学院は一九四五年の原爆を経験しています。この経験が今後どう生かされていくかというのが課題だと思うんです。幼稚園、高校、大学と全学院で平和祈念礼拝が行われております。この平和のメッセージが鎮西学院から世界に向けて発信されていくものでなければならないと思っております。これからの働きかけの日おっツは、原爆を経験した鎮西学院の平和への思いが国際化に表されていくプログラムを常に考えていかなければなりません。もう一つは、日本のプロテスタントの教会に対して、ミッションスクールとして力をもっていくこと。プロテスタント教会の前身に役立つ有方をしていくという姿勢だと思います。このようなことを総合しながら、具体的には中高大学一貫のプログラムづくりが当面の課題であります。



市川 森一
(いちかわ しんいち)
作家・脚本家
学校法人 鎮西学院 理事・評議員
1941年生まれ
1957年 鎮西学院中学部 卒業
1960年 長崎県立諫早高等学校 卒業
1965年 日本大学芸術学部 卒業
NHK大河ドラマ「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」などの大型ドラマや数々の話題作を手がける。芸術選奨文部大臣賞、日本アカデミー賞優秀脚本賞、紫緩褒賞、NHK放送文化賞など受賞多数。日本放送作家協会理事長、諫早市立図書館名誉館長



橋本 滋男(はしもと しげお)
同志社大学神学部教授
学校法人鎮西学院 理事・評議員
1935年生まれ
1955年 鎮西学院高等学校 卒業
1961年 同志社大学大学院神学研究科聖書神学専攻修士課程修了
1964年 同志社大学大学院神学研究科歴史神学専攻博士課程中退
1965年 ニューヨーク・ユニオン神が校修了 神学修士号 取得
1970年 プリンストン神学校 修了神学博士号
1972年 同志社大学大学院神学部専任講師、同大助教授を経て
1980年 同志社大学神学部教授
1993年 同志社大学大学院神学研究科教授 現在に至る


笹森 勝之助(ささもり かつのすけ)
1935年生まれ
1954年 鎮西学院高等学校 卒業
1958年 京都大学理学部地球物理学科 卒業
1958年 特殊法人日本化学技術情報センターを経て
1973年 富士写真フィルム株式会社入社
1995年 富士フィルムソフトウエア株式会社 代表取締役
1999年 同社退社後もIT関連のプロジェクトやコンサルティングに関わった後、2004年4月より現職。長崎県内の高等学校で発のビジネス界から転進した校長として注目を集めている。


林田 秀彦(はやしだ  ひでひこ)
学校法人鎮西学院理事長・院長
1929年生まれ
1950年 鎮西学院高等学校 卒業
1956年 東京神学大学大学院修士課程 卒業
1956年 日本キリスト教団 諫早教会 主任担任教師就任
1957年 学校法人鎮西学院 聖書科講師 就任
1957年 長崎刑務所 教悔師
1957年 日本キリスト教団本郷中央教会担任教師を経て
1967年 学校法人聖学院 中学校・高等学校 校長就任
1988年 東京私立中学校高等学校協会教育研究所道徳宗教部会会長
2000年 学校法人聖学院 中学校・高等学校名誉校長就任
2001年 学校法人鎮西学院 理事長就任
2003年 4月より現職

キリスト教学校教育 2004年6月号2〜4面


キリスト教学校教育同盟