ホーム < キリスト教学校教育 < 04年9月号 < 2面

礼拝説教

神の同労者 ―くり返せること、くり返せないこと―
(マルコ8・34〜38)
刀祢館 美也子

 谷川俊太郎さんが、イラクの子ども達の描いた絵に次のような詩を添えています。
「くり返すことができる/あやまちをくり返すことができる/くり返すことができる/後悔をくり返すことができる/だがくり返すことはできない/人の命をくり返すことはできない/けれどくり返さねばならない/人の命は大事だとくり返さねばならない/命はくり返せないとくり返さねばならない」

 「神の同労者である」とは「平和に対する責任を引き受けること」、教育の業が担うものもまた同様です。広島の平和公園の慰霊碑に「あやまちは繰り返しませぬから」という言葉が刻まれています。それは、過去の犠牲を悲しみ、過去のあやまちを悔いることで終わってはならない、核戦争を二度と起こさず、命と平和を大切にする現在と未来を築いていくという責任を、犠牲者と神の前に誓うということなのです。

 では果たして私たちはその責任を果たしているのでしょうか。いや、過ちは繰り返されています。核戦争こそ回避されてきましたが、戦争も核兵器はいまだなくなってはいません。イラクでは、劣化ウラン弾がアメリカによって大量に使用され、その放射能は土壌や地下水を汚染し、多くの子どもたちが白血病や小児ガンで亡くなっています。例の折り鶴で有名な「原爆の子の像」の佐々木禎子さんは二歳の時に被爆して、十二歳で白血病を発病して亡くなりました。イラクには今、たくさんの禎子さんがいます。そのアメリカを被爆国である日本の首相は全面的に支持し、平和憲法さえ捨て去ろうとしている……。

 過ちはくり返されています。くり返されてはならない過ちがくり返されています。くり返すことのできない命を、くり返せるかのように扱う大人たちを見ながら、子どもたちもまた人の命を、自分の命をくり返せるかのようにみなしてしまっています。
一方で、くり返せるはずの失敗や後悔を,くり返せないかのように思い、思わされているのも、今の社会です。日本人の交通事故による死者を、自殺による死者が上回ってその勢いはとどまるところを知りません。

 私たち教育の現場に立つ者が、語り続けねばならないのは、「くり返せるものとくり返せないもの」、その両者が何なのかということではないでしょうか。谷川さんの言葉を借りれば「命はくり返せないとくり返さねばならない」。同時に、くり返していい失敗や後悔はくり返していいんだよとも、語らねばならない。私たちは失敗や後悔をくり返すことで、自分を知り、人の痛みや優しさを知り、そして神に出会うのだからと。

キリスト教学校の多様な「建学の精神」の共通項は、イエスの福音です。そして、くり返せると思っていたことをくり返せないと、くり返せないと思っていたことをくり返せると、伝えたのが、イエスの福音だったといえます。誰もがそれを知ることで、「神の国〜神の平和〜が力あふれて現れる」のだと。

イエス・キリストにつながる枝であるキリスト教学校が、そこで働く私たちが、その希望を共有する「神の同労者」でありたいと思います。

   
〈広島女学院中学高等学校聖書科教諭〉
キリスト教学校教育 2004年9月号2面


キリスト教学校教育同盟