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クリスマスメッセージ
瞑想・クリスマスへの誘い
山本 敏明
 老い、とは悲しいものである。高校を卒業して、その孤独の中でイエス・キリストに出会い、多摩川で全浸礼を受け、その年のクリスマスは、辻々に立って、感動の讃美を歌った。しかし、その感動も年毎に萎えていく。

 にもかかわらず、クリスマスを迎えると、その萎えた魂も、地鳴りする震動に揺さぶられるように、不可思議な力に捉えられていくのである。

 クリスマス、それは、人類にとって、一つの偉大な“瞑想”である。年毎に冷えきっていく魂も、クリスマスという瞑想の時の中で、童心に帰り、あの感動の日々にかえることが出来る。

 神が、馬小屋で生まれた。神は、肉体を取ってわれわれの中に宿った。飼葉桶の中に横たわる嬰児こそ、われわれの救い主である。

 喜びの中の不安、感動の中に生まれる懐疑、この複雑な矛盾の中で、大きな謎に突き落とされていく。

 クリスマス、それは、喜びと懐疑、そして不安という逆説への大いなる瞑想の時なのである。この矛盾という逆説の中で、われわれは、神への思いに駆り立てられていく。そして、人間、という存在への瞑想に誘われていくのである。

 神が、人間となった。無限なるものが有限なるものに成った。永遠なるものが、時間的なものになった。その矛盾的関係の中で、われわれ人類は、永遠にぶつかり、“無限”の前に立ち止まり、そして有限なるもの、この現実の存在物に目を止めて、嘆息をする。

 われわれとは、一体何ものなのか。存在という現実の直中で、如何にわれわれは盲目であることか。その嘆息の中で、われわれは天を仰ぐのである。

 そして、再度、飼葉桶の中に眠る嬰児に目を注ぐ。そこには受難の影が宿り、迫害の血が、全身を覆っている赤子がいる。

 やがて、苦難に耐え抜く一人の人間、すなわち、そこには“真の〈神霊の顕現〉は人間である”とさえ告白せざるを得ない一人の人間が眠っているのである。

 その予感の前で額突いた博士達のように、この嬰児の前で頭を垂れるのである。そして「驚異の感情は、崇拝の根底である。驚異心は、永久不滅に人間の心に君臨する」と書いた先人の言葉の如く、突如、わたしたちの中で眠っていた驚異の感情が、ざわめき始めるのである。その時、響く言葉がある。

 「〈言葉〉こそは、この世界において全能なものである。言葉を使い得る故に、神性を有する人間は、神の如き一声を以って、物を創り出すことができる。
 目覚めよ!起きて!お前の中に存在するもの、神が、お前に与えたもの、悪魔も奪い去ることのできないものを、言葉にして表わせ。」

 「老い」、それは、「驚異の時」である。それ故に、老い、とは、矛盾を超えて、讃美へと出で立つことの出来る時である。

 クリスマス、という瞑想が、われわれを導き誘う恵みの時を、今年も、童心をもって祝い歌おうではありませんか!


〈長崎学院理事長、同盟評議員〉
キリスト教学校教育 2004年12月号1面


キリスト教学校教育同盟