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聖書のことば
前島 宗甫
 
 「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。・・・神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。(ローマ8・26〜28)

 「アーメン!」。ロッカールームに響いた声に私の鼓膜は激震した。アメリカンフットボール関西学生一部リーグ戦、全勝同士の関西学院大学と立命館大学の対戦直前のロッカールームである。ウォーミングアップを終えた選手とコーチ、スタッフ百余名が円陣を組む。そこでの聖書朗読とメッセージそして祈りが私の役割である。昨シーズンからこの役割を担っているのだが、今シーズンは副部長も兼ねている。

 この試合前の祈りは伝統的なものだが、部長やコーチが決めたものではない。部員たちが自発的に決めるものである。昨シーズン前半は試合前ウォーミングアップの前に行っていた。しかし後半になって、試合直前に行いたいと依頼された。

 私にとってこれ程の「プレッシャー」はない。未体験ゾーンであった。激しい身体的コンタクトを伴う試合に臨む選手たちは緊張の極限にある。特に今シーズンの優勝の行方を決める全勝同士のライバル対決ともなれば、全員のテンションの高さは半端ではない。クールダウンさせつつモチベーションを降下させないように。彼らの「腑に落ちる」メッセージ、祈りでなければならない。監督と相談して一分三十秒と決めているが、誤解を恐れずに言えば、チャペルアワーの三十分より「疲れる」一分三十秒である。

 立命戦では上記の聖書を読んだ。百余名の眼差しが痛いほどである。トチれない。彼らの目を見返しながら語る。途中で、主将を始め泣きながら祈っている選手たちの様子が伝わってきた。

 激戦の末勝った。「勝っても負けても、このゲームが皆にとって生涯の宝になるように」と祈ったのだが、試合後「祈りどおりになりましたね」と弾んだ声が返ってきた。キリスト教主義教育は、キリスト教の精神に基づいて、さまざまな分野での教育を意味するであろう。課外でのキリスト教主義教育の喜ばしい瞬間である。

〈関西学院大学キリスト教と文化研究センター教授、関西学院宗教センタ−宗教主事〉
キリスト教学校教育 2004年12月号1面


キリスト教学校教育同盟