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聖書のことば
庄司 眞

 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩編127・1a)

 人生は家を建てることに似ている。私たちは生まれてから死に至るまで人生という家を構築し続けるのである。その際、「家を建てる人の労苦」が問題となる。家という構築物は、人生と同様に、だれがどのように建てるにしても、そこには必然的に労苦が伴う。そして、土台を岩の上に据えようと砂の上に据えようと、建てる人の労苦そのものに変わりはない。また、いかに綿密に設計し、さまざまな技術を巧妙に駆使しても、その結果がうまく行くとは限らない。地震や火災や洪水などの災害によって、すべての労苦が水の泡に帰すということもある。

 人はいつかは死ぬが、いつその時が来るのかだれも知らない。だから、特に人生という家の構築においては、結果よりも今この時をいかに生きるかが問題となる。今この時の作為あるいは不作為はすべて未来につながっている。しかし私たちはその未来を見ることができない。ただ、この詩人が明確に自覚していることは、「主御自身が建ててくださるのでなければ」、その労苦は「むなしい」ということである。人生に労苦がつきものであることに、詩人は何ら異議を唱えない。人生の労苦はしばしば(たとえば子育てのように)むしろ喜びですらある。したがって、詩人が問題にしているのは無意味で無駄な労苦ということになる。

 ところで、「主御自身」すなわち神は私たちの未来にいます方である。未来にいます方は、未来から常に私たちの現在を見ておられる。実にさまざまな「関係」を不断に生きている私たちが、何のごまかしも欺瞞もなく、時には犠牲さえ覚悟して、真実に生きているかどうかを見ておられる。否、そのように生きるがゆえの労苦を見ておられる。そして、神はその労苦に寄り添い、その労苦に意味を与えてくださる。すなわち、天地創造の主が自らお造りになったものを「見て、良しとされた」ように、今この時の労苦を「然り」とされるのである。詩人はこの事態を「主御自身が建ててくださる」と表現した。


〈西南女学院中学校・高等学校教諭、宗教主事〉
キリスト教学校教育 2005年1月号1面


キリスト教学校教育同盟