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第四十六回中高研究集会 
今日キリスト教学校で働く者の使命
竹中正夫
 

ミッションということ

今日ミッションということばが又使われるようになってきている。ロシアで車の番号でDは外交官(ディプロマット)、Pは報道(プレス)関係者、Mは外国から来ている企業の人をあらわしている。その場合Mはミッションから来ている。近年北米の企業家の間では、実業人のミッションということが問われている。その背景にはエンロン社とかアーサー・アンダーセン社などの大企業が不正行為によって破綻した苦い経験がある。先端医療技術企業、メドトロニックのCEOであり会長であるビル・ジョージは『ミッションリーダーシップ』(二〇〇四年生産性出版)という本を書き、企業の責任者のミッションを問うている。ミッションとは「遣わされて果たす仕事」と言い、本来キリスト教の外国伝道において用いられていたことばである。戦後かつて宣教師が働いていた国々が独立し、ミッション・ボードは、ミッションということを言わなくなったのに反して、経済人の領域でミッションということがいわれていることは皮肉なことであり、興味深いことである。私は今日、キリスト教学校で働いている者のミッション(使命)を考えてみたいと思っている。

 日銀総裁の使命を果たされた速水優氏の「教会に支えられて」を感銘深く読んだ。氏は敗戦の苦しい時代に二人の兄と父をつぎつぎと亡くすという逆境に遭遇した。その中で彼は、聖書に基づいた信仰を与えられ、それによって職業は神からの召命(calling)と受けとめて、働いたことを証しておられる。日本では、医師や教師の間では天職という考えがあった。天から召されてその仕事に与るという意味であった。わたしは、すべての人間は、この世の旅人として天から遣わされた使命をもって生きるものであると思っている。

 出会いの場としての学校

 学校は人間と人間が出会って互いに成長する場である。人は出会いを通してより深い、そして豊かな人間に変革されてゆく。理性を増大させ、感性を磨くことも大切である。しかし、もう一度深めて霊性を涵養することは更に重要である。そして感性から霊性への過程は自動的ではない。多くの人が優れた宗教画家として尊敬しているレンブラント(一六〇六〜一六六九)は豊かな素養と技能をもつ芸術家であったが、彼の絵が宗教的な深まりを持つようになるのは、一六四二年以後である。その年、彼は愛する妻サスキヤを亡くし、悲劇の中にキリストに出会う。それまでのレンブラントの絵は、キリストを描いても、華やかな宗教的メロドラマのスター・プリーチャー(花形説教者)のようであったが、それ以後は、ほのかな光をもって弟子たちの心に希望を与えたエマオのキリストのような深い作品を描いている。もちろんわたしたちはレンブラントのような芸術家ではない。しかし、日常的な理性や感性から霊性に到る道は、出会いを媒介とするということにおいては、聊かも変わりがない。わたしが、今日キリスト者であるのは、わたしの母を媒介としている。そしてわたしの母の信仰は、音楽の教師として働いていた学校でC・B・デフォレストという宣教師と出会ったことに起因している。その学校とは神戸女学院であった。

 共創の場としての学校

 後進国であった日本は追いつけ追い越せでやって来た。その場合は先進国を模倣していればよかった。これからの日本は独創的でなければならない。そこでいかにして創造力を培うかということが日本の重要な課題となってきている。企業の分野で創造性の開発を試みた現場の報告書がある。それは、『共創のマネジメント―ホンダ実践の現場から』(吉田恵吾著、NTT出版、二〇〇一)である。そこでは、創造的な考えを生み出すような組織の要件が具体的に記されている。彼は、創造の場の要素として、一、知識(科学の体系)、二、直観(専門家の洞察)、三、信頼感(場のマネジメント)、四、興味(熱中、意志)をあげ、創造性はこれまでのものが新しくされるという自己否定を媒介とするものであるとのべている。ここで、重要なことは、「目的の共有」ということである。それを「理念の共有」といってもよい。わたしたちは同じ共同体に属し、同じ理念の下に働いているという信頼感がなければ、創造的な営みはおこらないという。

 キリスト教学校において「立学の精神」とか「建学の理念」とかが言われるが、それが古いお題目に止まっていることが多い。博物館や資料室で収蔵されて了っていないか。地道な歴史的研究に根ざして立学の精神を明らかにし、それを現代的に表現することが大切である。立学の精神を共有して、キリスト者である人もない人も、そこに働く人びとが、それぞれの職場を生かして貢献する共同体づくりが重要な課題となっているように思う。

 人間形成の場としての学校

 今日日本の社会は価値観の座標軸を失い危機的な状況にある。戦前の中心的な価値観は教育勅語であり、その基盤には国家主義と儒教の倫理があった。戦後において民主主義が導入されたがその理念はほとんど顧みられず、多数決をいう方法が重んぜられ、民主主義は「票集め」となっている。「人間の正義を受け入れる力は、民主主義を可能にし、人間の不正に向かう傾向は民主主義を必要とする」(Man’s capacity for justice makes possible. Man’s inclination for injustice makes democracy necessary.)(ラインホールド・ニーバー)といった含蓄あることばを味わうことは少ない。個人主義と自由主義が主張されているが、前者は利己主義となり、後者は勝手気儘な奔放な生き方となっている。こうした中に、世代間の格差や、貧富の格差が拡がり、社会的不安が増大し、近隣諸国との関係とあいまって国家主義がこの国に再び台頭する気配がある。こうした中でキリスト教の諸学校は、多くの人びとの期待の中にある。その期待は多様なものがあると思うが、キリスト教を根底にして、人間教育がその期待の中心にあると言ってもよいと思う。さきに挙げた北米の実業家、ビル・ジョージは企業人が短期的に株主を優先にして来た今までの順位を改めてカスタマー(顧客)と従業員を大切にし、第三番目に株主を大切にする長期的視点の重要性をのべているが、キリスト教学校においても父母や生徒の期待に応えて人間教育を徹底させることが重要になって来ていると思う。

 希望の場としての学校

 キリスト教の学校は教会ではない。しかし、それは、聖書に根ざした希望の共同体である。それは、未信者の人びとを含めて、人間としての弱さ、醜さ、そして不条理を日々に反省し、ゆるされ、また新しくされて、自分たちの使命を再確認し、神の召命に応答してゆく希望の共同体である。

 「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」

(コリントU4・16、口語訳)



〈同志社大学名誉教授〉
キリスト教学校教育 2005年5月号2面


キリスト教学校教育同盟