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愛の共同体としての学園
新井 明
 教育の現場において、このごろ、とくに気づくのは、現今の若者には人間としての素朴な感動の体験が、一般に乏しい、ということである。偏差値なるもので区分けされ、それがあたかも人間そのものの価値を決める基準であるかのように考えられ、進学、就職、その他の分野で適用されてきた。日常生活においても電子機具や各種の薬剤めいた食料品に囲まれて生きている。大学に入れば入るで、卒業後、ただちに経済一辺倒の社会の、いや企業の、即戦力に化すべく、「専門」科目、「専門」技術の訓練を受けることが期待されている。これでは、やる気をなくす若者の数がふえるはずだ。

このような状況にあってこそ求められているのは、知育・徳育・体育の均衡の上に立った全人教育であろう。「心」の教育である。いまさらなんだ、という声が返ってくることは承知で、このことを言うのである。この味気なき教育環境が蔓延している日本の国土の上で、いま真に求められているのは、学生一人ひとりを愛し、彼らの潜在能力を引き出すことを助ける教育――助育――以外にはない。それは人を、ある物差しで計り、上下に位置づけ、型にはめてゆく「専門」至上主義の教育でできることではない。既成の常識、固定概念などを超越するものの存在を知る人格の養成が必要なのである。

そのためには、学園は、まず愛の共同体でなくてはならない。学生たちの人格を尊敬し、かれらの「隣りびと」となることをよしとする教職員が充満する場でなくてはならない。

新潟は昨年の夏は豪雨に打たれ、秋は大地が揺れた。被災学生(の家庭)にはそれなりの手当てをした後で、学生・教職員たちは何回かにわたって、被災地へボランティア活動に出た。その後、ある学生がわたしに次のように書いてきた。「ボランティアを何度か体験しているうちに、人の役に立ちうるということに幸いを感じ、人のお世話や助けにつながる職業に就くことを考えるようになりました。大学にいる間に多くの教養を身につけ、将来社会に貢献したいと思います。」

ここで「教養」といっているのは、リベラル・アーツによる教育内容を指していることは確かである。 悲惨な現場でうけた悲しみへの共苦と感動が、これまで体験しなかった「新しい目」をこの若者にあたえたのであろう。

このごろ大学をめぐる環境が、とみに厳しくなってきた。教育の現場にまで「改正」という名の統制を加えようとする動きが顕在化する傾向にある。中教審による「わが国高等教育の将来像」の表明、また「教育基本法」改定の機運、等々である。教育にたずさわる者はその時代時代の流れ、とくに思想的、政治的、経済的傾向に迎合することなく、その傾向から一歩退いて、時代の潮流の基底にあるものを(目を将来にむけて)見据えつつ、行くべき道を模索すべきである。

次世代を担う若者たちの心を耕し、感性を富ませ、かれらに弱者の「隣りびと」となる意欲を身につけさせることに成功するならば、学園の営みは、いちおう果たせたというべきであろう。



敬和学園大学学長、同盟監事
キリスト教学校教育 2005年6月号1面


キリスト教学校教育同盟