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『同盟百年史紀要』第三号から
教育同盟の戦後の遺産と克服すべき課題
-「内外協力会」関連資料について

大西 晴樹

はじめに

敗戦間もない一九四七年四月、北米の八ミッション(アメリカンボードAB、福音改革教会E&R、福音同胞教会EUB、メソディストMC、北長老PN、ダッチリフォームドRCA、合同教会UCC、デサイプルUCMS)は、日本基督教団支援のために連合委員会(International Committee for the Christian Work in Japan IBC)を結成した。これに呼応して同年八月に日本基督教団、基督教学校教育同盟の代表らが箱根に集まり、連合委員会代表と内外協力会議(Council of Cooperation―CoC)を開催した。北米八ミッションによる支援の受け皿として、内外協力会は一九四八年二月に正式な組織体として発足した。その事業内容は、北米のミッションの多大な資金援助による教会、キリスト教学校、各種キリスト教事業の振興にあり、教会、キリスト教学校、神学校の戦災復興以外に、食糧援助、海外への留学生派遣、教職子女奨学金、キリスト教文書の出版、宣教師招聘の調整などにあった。研究史によれば、内外協力会による北米からの金銭的、物質的援助に、大内三郎海老沢有道・大内三郎『日本キリスト教史』日本基督教団出版局、一九七〇年、282-283頁)は戦後キリスト教界の復興の一因を、土肥昭夫は(土肥昭夫『日本プロテスタントキリスト教史』新教出版社、一九八〇年、419頁)内外協力会の働きに日本基督教団が解体しなかった理由を求めている。

本稿は、同志社社史資料室所蔵の資料に依拠しつつ、キリスト教学校教育同盟との関連において、戦後復興期における内外協力会の歴史的役割を、1.人的構成、2.国際基督教大学設立運動との関係、3.組織原理、4.特別教育調査と各学校の戦後復興の順に簡単に整理してみたい。

1.人的構成

内外協力会は、各教派ごとに行われていた戦前の個別の宣教協力方式と異なり、北米八ミッションによる日本宣教協力の唯一の受け皿になった。しかし、内外協力会を構成したメンバーは、宣教師も日本の代表も戦前からの人脈の延長線上にあった。連合委員会議長のL・シェーファーは元フェリス女学院院長であり、内外協力会設立に尽力した宣教師六人委員会もC・D・クリーティは元宮城女学院校長、他にP・メイヤー(一九〇九年来日)など、交換船で離日したものの戦前から日本にいた宣教師たちで構成されていた。

これは、一九四八年春まで、宣教師の入国について、かつて日本において伝道しており、食糧・住宅の得られるものという連合国最高司令官本部(SCAP)の制限が課せられていたことにも起因している。また日本側の代表も、富田満(元教団統理)をはじめ戦前からの指導者や、特に興味深いのは、山本忠興、湯浅八郎、そして内外協力会総主事の海老沢亮ら戦前のキリスト教大学設立運動に関与していた国際派の指導者が名を連ねていることである。内外協力会においてキリスト教学校教育同盟に割り当てられた人数は、日本基督教団の教会代表のそれと同数であった。それは海外留学奨学金の割り当てにも看取できる。

2.国際基督教大学設立運動との関係

戦前のキリスト教大学設立運動については、拙稿「キリスト教大学設立運動と教育同盟」(キリスト教学校教育同盟『百年史紀要』創刊号、二〇〇三年)で論じた。戦前の男子キリスト教大学設立運動は挫折したが、キリスト教学校教育同盟における運動は戦後再び息を吹き返し、国際基督教大学として日の目をみる。しかしながら、C・W・アイグルハートが「四十名を越える日本の教会や学校の指導的立場の人々が、一九四七年六月(ママ―引用者)に箱根の湯本で代表団を迎え、この注目すべき会議の席で、その後の協力関係の下地が築かれた。大学建設委員会からも代表が送られ、クリーティは基督教教育同盟会の書記として参加した。この日米の会議は、画期的なものであったが、新大学設立運動を前進させるものとはならなかった。それどころか、海外のミッション・ボードに関連学校の復旧と発展に援助するよう促す、強い調子の決議を採択した。そして、新しい事業を支援する措置は何一つ講じられなかった(『国際基督教大学創立史』国際基督教大学、一九九〇年、5152)と述べているように、国際基督教大学設立運動と、自らの所属学校の戦後復興を優先しようとする教育同盟との利害対立が表面化することになる。この点はたんに北米からの資金援助の配分の優先順位をめぐる対立のみならず、キリスト教大学構想が戦前の研究所大学から、既存の新制大学と競合する大学へ変化したこともその一因として挙げられよう。また資料から開学以前に国際基督教大学設立委員会はセミナーを主催し、キリスト者の大学院レヴェルの教育に当たっていた事が分かる。

3.組織原理

北米の八ミッションからのヒト・モノ・カネの援助はすべて内外協力会を通じて配分された。その配分方法をめぐって、学校関係については、旧教派との関係で多少の混乱は見られたものの、内外協力会が一元的な権限をもっていた。

連合委員会に請求した一九四八年度の予算額は、九十七万千二百三十ドル五十セント=三億四千九百六十四万二千九百八十円という当時としては膨大なものであった。その中から、教育関係では、各学校への援助、留学生への奨学金、教職者の子女奨学金などが支出された。ただし、額面どおり連合委員会から手当てされたかどうかは、不明である。内外協力会は教育に従事する宣教師の受け皿となり、その宣教師の受け入れ先を決めた。そのために、内外協力会は連合委員会からの圧倒的な資金援助のもとに事務局体制を確立した。内外協力会での決定は、キリスト教学校教育同盟加盟の各学校の利害調整を図るため、常務委員会→全体会の順で公平な観点から慎重にすすめられた。この点を詳細に示しているのは、戦災復旧事業として取り組まれた特別教育調査である。

4.特別教育調査と各学校の戦後復興

特別教育調査事業は、内外協力会における意思決定のプロセスを詳細に示している。各校の要望に対応するため、国内外各六名による建築委員による調査旅行を敢行し、海外から技術専門家を呼び、各校の惨状を写真や図で示すことによって、その資金が公平に分配されることに細心の注意を払っている様子が窺われる。

しかし、合理性の貫徹を重視するあまり、工事が遅れるという不便さもあった。特別教育事業には、いくつかのキリスト教学校の過密地域における統合、神学校の統合、北陸のようなキリスト教学校の過疎地域における新規計画など、援助する側であるアメリカの連合委員会の思惑が働いていた。実際の援助は、経常費の一〇%を超えないように行なわれ、新設認可が予定される短大の保育科や広島、長崎の学校に重点配分されている点は興味深い。また北米八ミッションとの関係を持たない「教団関係学校」以外のキリスト教学校への配慮も垣間見える。

一九五〇年代初頭には教会とキリスト教学校の関係の希薄化という問題がそろそろ出始めている。教職子女奨学金は、教職の待遇が改善しつつあってもなお強い要望があり、廃止を目論む連合委員会との論点となった。また物的支援を利用した各学校の無為替輸入が短期間であるが厳密なルールのもとに行われた。

終わりに

―担い手の思想と戦後ミッション・スクールの優位性の確立―

初期の内外協力会における教育同盟の担い手の思想的傾向は、冷戦構造のもとで共産主義を意識したものであった。また天皇絶対主義の呪縛から解放され「精神的自由」を手にしたとはいえ、その担い手の戦前からの継続性と戦争直後の物質的窮乏下のもとで、ヒト・モノ・カネによる援助を精神的、倫理的に著しく昇華させて受入れる傾向があった。同じ内外協力会においても、援助を伝道論との関連でいち早く相対化した日本基督教団と異なり、キリスト教学校教育同盟には、わが国に根強い公立学校崇拝に対する強迫観念と競争意識により、キリスト教学校という独自の事業経営にとって必要な戦略的構想を新たに構築する余裕はなかったように思われる。その後の関連で言えば、北米八ミッションからの援助が見直される契機となったのは、キリスト教学校における理事のクリスチャン・コードの徹底が提唱された一九五九年の三月会議においてであり、内外協力会の内部において自給論が台頭する一九七一年まで、その援助額は減少することはなかった。校舎の建築資金とは別に、たとえ各学校の経常費の一〇%以内に抑えられていたとはいえ継続する膨大な援助金、十名〜二十名規模で毎年派遣される海外留学生や、来日宣教師の招聘をつうじて、「ミッション・スクール」といわれるキリスト教学校の戦後日本社会における優位性はこうして内外協力会の活動と切り離すことはできないのである。

(詳細は、「同志社所蔵『内外協力会』関連史料―キリスト教学校教育同盟との関連で―」と題して、本同盟刊行の『百年史紀要』第三号、二〇〇五年六月に掲載予定)。



<明治学院大学経済学部教授>
キリスト教学校教育 2005年6月号2面


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