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キリスト教学校教育同盟
保育分科会の史的変遷
大森 秀子

 戦後から今日までキリスト教保育者養成機関が時代の波に曝されながら、経営的にも困難を乗り越えてきたことは、よく知られている。近年ではキリスト教学校教育同盟の中で保育分科会について耳にすることはないが、かつて同盟の中央・教育研究委員会大学部会には保育分科会が存在し、主に短期大学をメンバー校とする保育者養成校のグループがあった。

保育分科会の前身は一九五五年頃、関西地区の養成校の三校(聖和女子短期大学、頌栄短期大学、平安女学院短期大学)が横の連絡と研究のために集まった会合であり、保育分科会が正式に教育研究委員会の中に組織されて以来、一九九四年までその活動が続けられた。

本小論では、戦後の保育分科会の歴史を成立期、低迷期、維持期、消滅期の四期に分け考察してみたい。

1.保育分科会の成立期(一九五六‐一九六七

周知の通り、戦後、幼稚園は学校教育法により学校教育体系の一環として位置づけられた。一九五三年七月に教育職員免許法が改正されて以来、幼稚園教員養成は原則として、幼稚園教員養成課程を持つ認定大学で行われ、例外として教員養成機関の指定制度も認められた。

一九五四年当時、幼稚園教員養成課程を有する私立の短期大学十七校のうち、八校が同盟加盟校であり、半数近くを占めていた。それは東洋英和女学院短期大学、北陸学院保育短期大学、柳城女子短期大学、平安女学院短期大学、大阪基督教短期大学、頌栄短期大学、聖和女子短期大学、西南学院大学短期大学部である。 

同盟の総会記録に保育分科会の報告が初めて登場するのは、一九五六年度の事業報告においてであり、おそらく当該年度が保育分科会の正式の発足年であったと思われる。同年五月二十九日開催の「教育研究委員会保育分科会」の記録には上記の養成校の他に、北星学園短期大学、宮城学院短期大学、尚絅女学院短期大学の三校の名前が認められる。

現在、同盟本部には保育分科会の規約(会則)に関わる文書が三つある。一つに発行年月日の入っていない初期の規約(九条構成)、二つに一九六六年七月一日に発行された会則(十条構成)、三つに一九六七年五月十三日改正の会則(十条構成)である。

初期の規約は一九五五年十月二十五日開催の「基督教主義短大保育科研究協議会」で定めたものであろう。これによれば、本会は組織上「教育研究委員会組織の内に含まれ」(第1條)、「基督教々育同盟会に加盟する保育科を設置している学校」を会員として(第2條)、「総会は基督教々育同盟会総会の前後に開催」することになっている。(第4條)

規約の第3條には、本会の目的について、「保育者養成に関する運営、教科課程及びその内容に就いて調査並びに研究しその目的を達成する為に毎年一回協議研究会を開催する かつ会員相互の親睦を計るを目的とする」と記されている。

 一方、一九六六年発行の会則によれば、第2条で「本会は基督教主義幼児教育者養成校間における教育および学術研究の振興を計るを以つて目的とする。」とあり、幼児教育者養成校の会であることが打ち出されている。

第3条には、本会の事業について、「1.総会の開催(年一回春季)、2.研究発表会の開催及び研究紀要の発行、3.その他研究奨励・教育の振興に関する事項」の三つを行うこととしている。

第4条では、本会の会員は「基督教学校教育同盟に属する大学・短期大学であって、保育者養成機関とする。」となっている。

この時期の保育分科会の大きな成果は紀要の発行である。『保育研究』と題する研究紀要が一九五七年、一九六一年、一九六五年、一九六七年と四回、刊行された。これらのうち、現在の同盟本部に所蔵されているのは第一集から第三集までであり、残念なことに第四集が欠落している。

具体的な研究テーマをみると、キリスト教幼児教育の原理的なものから、幼児の宗教性の発達、現場の保育にかかわる保育内容に至るまで広く研究が重ねられている。

2.保育分科会の低迷期(一九六八‐一九七七)

一九六八年から約三年間、保育分科会は存続の危機に瀕する最初の低迷期に入っている。この時期はちょうど大学紛争が繰り広げられた時期でもある。こうした状況に陥った原因は何だったのだろうか。一九七〇年度第五十九回総会提出用に用意されていた「教育研究委員会事業報告()」には次のように記されている。

 「保育分科会は最初短大分科会のような意味で発足したのであるが、保育教育を扱う四年制の大学も増加したし、現在では保育分科会と教研委員会との間の連絡が十分でなく、担当者が交代しても引継ぎが行なわれない状態であり、その存在理由についても疑問がある。そこで大学部会中央委員会では次のような方針をとることにした。つまり、大学部会としては、保育分科会は解消の方向に進め、大学部会委員相互の名をもって今回の大学部会中央委員会での話し合いの模様を通知し各加盟校の意向をたずねた上、できるならば同盟総会の前に会合を行ない、保育分科会の解消を同盟総会にはかることとした。」

この記述から、まず、保育分科会停滞の内部的要因としては、教育研究委員会と保育分科会との連絡が不十分であった点が指摘できる。他方、外部的要因としては四年制大学の保育者養成課程の増加が影響している。

さらに、上記の引用文において注目に値することは、当時の中央の教育研究委員会大学部会が第五十九回総会に向けて、保育分科会解消の方針を打ち出していた点である。

これに関し、保育分科会はメンバー校十九校を対象に、保育分科会存続の可否についての意向をたずねるアンケートを一九七一年二月に実施した。アンケートは全ての学校から回収できなかったものの、存続を希望する学校が十校、不必要と判断した学校が三校であった。この結果を受けて、当会は一九七一年五月二十四日の保育分科会総会において存続を決定した。この総会に参加した学校は尚絅女学院短期大学、宮城学院女子短期大学、東洋英和女学院短期大学、青山学院女子短期大学、和泉短期大学、聖和女子短期大学、頌栄短期大学、西南女学院短期大学、松山東雲短期大学の九校であった。

この総会の二日後に開催された同盟の第五十九回総会では、保育分科会の存続が承認され、その後、組織的には「教・研中央委員会からの要請により保育分科会から一名の委員が中央委員に加わること」が決まり、中央の教育研究委員会とのパイプを強めながら会を運営していくこととなった。

さて、再出発した一九七二年度の保育分科会総会では、加盟校が二校(立教女学院短期大学、草苑高等保育学校)加わり、会則が改訂された。運営の面でも新委員を東北・北海道、関東、関西、西南の各地区から選出することを決定した。

しかしながら、一九七〇年代後半の保育分科会は再度、存続の危機に見舞われ、一九七六年度の保育分科会は未開催となっている。保育分科会不調の主な理由は会の性格があいまいであったことに帰せられる。とりわけ、保育者養成機関が爆発的に増加する一九七〇年代は、保育学会をはじめとする保育関係の研究団体、研究会、研究グループが数多く出現しており、その中で保育分科会を構成する保育者養成校が中央の教育研究委員会の支援を受けて全国的にまとまり、充実した研究活動を進めるだけの力を終始持つことができなかったことは大きい。

一九七七年度の「教・研保育分科会記録」には、研究機関としての保育分科会を強く要望する意見や、保育の現場との連携の必要性を力説する意見等が記録されている。

3.保育分科会の維持期(一九七八‐一九九四)

一九七八年度の保育分科会こそ新しい活動方針を打ち出し、変革を期待して第一歩を踏み出した年である。一九七八年時点で本会を構成する養成校は二十六校(大学二校、短大二十三校、専門学校一校)であった。

一九八〇年代、一九九〇年代の保育分科会に起こった特徴的な変化は、分科会の参加者が同盟加盟校に限られなくなったことである。

一九七八年度に初めてキリスト教保育連盟から特別出席があり、その後もキリスト教保育連盟からの参加は断続的に続いた。また、総じて幼稚園、保育所、養護施設、幼稚園母の会といった保育の現場を代表する園長、施設長、保護者が発題者として多く迎えられており、養成校と保育現場との連携協力へと動き出しているようにみえる。

さらに、一九八〇年代には、玉成保育専門学校、彰栄保育専門学校、キリスト教保育専門学院、京都保育専門学院といった専門学校からの特別参加があり、同盟加盟校の枠を越えて共通する保育問題について協議している。

時代的には、一九八〇年代の保育界は出生率の低下による園児数減少という差し迫った問題を抱え、やがてはその波が養成校に押し寄せてくることを懸念し、全国の保育者養成機関の危機意識は高まっていた。特に短期大学は冬の時代に備え、その対応を検討し始めていた。

保育分科会では一九八二年度に「キリスト教主義養成校の現状と将来―幼児数減少の中で―」、一九八五年度に「キリスト教保育者養成機関と幼稚園・保育所―幼児人口減少期にあたって―」という主題でこの問題を集中的に取り上げている。幼児人口の減少という問題への取り組みには、学科・コースの多様化、学科改編、四年制への転換といった大学の改組に関わる内容が横たわっていたが、養成校の保育の多様化のスタンスはそれぞれ微妙に異なりながらも、いずれも経営を優先させず、目標や理念に従って教育と経営の両面からこの問題にアプローチしている。

保育内容の面では、文部省が一九八八年に『新幼稚園教育要領』を告示し幼児教育改革が進む中、キリスト教保育連盟が『キリスト教保育指針』(一九八九年)を刊行した。これを受けて、一九八九年度の保育分科会ではキリスト教保育カリキュラムの理論と実際に関する研究が展開され、会は参加者四十八名という盛況ぶりを示している。

かつて幼稚園教育中心志向だった保育分科会にとって、『キリスト教保育指針』に学ぶことは、八十年代九十年代の社会的要請を真摯に受けとめることでもあり、乳幼児保育、障害児保育、児童福祉等を視野に入れた教育課程を展開しつつある養成校の動向に見合った企画であったと思われる。

また、将来的にはこうした会を契機として、保育分科会がキリスト教保育連盟との繋がりを持ちながら、現職教育を実践していくことも不可能ではなかった。しかし、現実的には一九九一年以降にキリスト教保育連盟からの保育分科会への出席はなく、キリスト教保育連盟に現職教育の主導権を譲る形となった。

4.保育分科会の消滅期(一九九五年以降)

一九九〇年代の保育分科会の主題を瞥見すると、「変わるもの・変わらないもの」(一九九〇年度、一九九一年度)、「われわれはどこに立つのか」(一九九二年度、一九九三年度)、「われわれは何をめざすか」
(一九九四年度)といった言葉が目につく。これらは中央の教育研究委員会のテーマを受けて設定されたものである。こうした事実は保育分科会が一見、中央の教育研究委員会と十分な連絡をとりながら発展したかのようにみえる。

しかしながら、実際には一九九五年以降、分科会は中断された。一九九五年度「教育研究委員会事業計画」には「教研中央委員会での話のように、この会のあり方を検討し開催かどうかを決める。」と報告されており、この後、保育分科会に関わる記述は一切出てこない。

 以上、戦後の保育分科会の歴史を簡単に考察したが、保育分科会が短命に終わった直接的な原因として、保育分科会と中央の教育研究委員会との連携が十分にとれなかったことや、保育分科会の性格が定まらなかったこと等が挙げられる。

しかし、かつて、保育特集号として発行された『キリスト教学校教育』第四十号(一九六一年二月一日)の特集記事の前書きに、保育分科会の性格が「日本宣教において、神学校にも準ずべきとくべつの意義をもつ」と記されていることから判断すると、保育分科会が自然消滅した根底には、同盟における保育分科会の位置づけの根本的変化があり、それは、戦後のキリスト教界における同盟の役割の変化に連動していると思われる。

今後さらに、保育分科会の歴史を正確に記述するためには、各時期の同盟主事、教育研究委員会担当理事、保育分科会関係者に直接インタヴューを実施していく必要があろう。


 
<青山学院大学文学部助教授>
キリスト教学校教育 2005年6月号3面


キリスト教学校教育同盟