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第2日礼拝奨励

暗くなければ見えないもの
イザヤ46:10〜11
安積 力也
 
 戦時中、幾つもの忍従を強いられる中、河井道は「自らの精神の健康を失わないために」新たな女子農芸専門学校の設立に奔走した。そして設立申請書に記した「キリスト教の信仰にしたがって」との文言の削除をめぐって時の文部省審査官との厳しいやり取りの末、敗戦直前、驚くことに「キリスト教主義にもとづいて」と明記された学校の認可に成功している。(河井道著『スライディング・ドア』p37~

 この河井の姿は、私にはまぶしすぎる。なぜ河井は逃げなかったのか。なぜ「キリスト教」の一点に関しては妥協できなかったのか。なぜ河井は絶望しなかったのか。己れの弱さと暗さの只中でこう自問する時、私には二つの答えが暗夜の星の光のように見えてくる。

 一つ。河井は「教育が本来的に持つ希望」に賭けたからだ。今、「結果を強制する教育」がこの国を覆っている。早く目に見える成果を出す教育が良しとされる。親であれ、教師であれ、学校責任者であれ、私たち大人の心を覆う今の時代の尋常でない不安と恐れ。それがこの国の子ども達を追いたてている。子ども達は必死でついていくしかない。本来われわれ自身が引き負わなければならないものを、子ども達が肩代わりさせられている。大人の側の不安を軽減するための子育てや教育。だからこの国の子ども達の心は深く閉じている。「一見良い子」の中にある「心の闇」を我々はどこまで見抜けているか?この子たちが今徹底的に学んでいるのは「私が私であろうとしてはいけない」ということだ。教育は本来、その子の二十年三十年先に花開く「深い原因を与えていく業」ではないのか。河井は「次の時代の平和」を実現する「個」として独立した女性の創出に賭けたのだ。

 二つ。河井は「みことばの約束」に賭けたから。そこに自らの弱い存在を委ねたからだ。

「みことばの約束」のみを根拠として「時代」に立ち向かい「闇」の現実を担った人。河井はこの信を貫くためには「友」を必要とすることを、誰よりもよく知っていた。だから戦争のさなかにあっても、アジア欧米を問わず「国境を越えた友情」を保持し、それを生きた。そして、この国にあって尚一校でも二校でも「キリスト」の御名を掲げつづけるキリスト教学校の存在に深く支えられて、日毎の礼拝を奉げつづけた。

 捕囚地バビロニアで活動した無名の預言者「第二イザヤ」が伝えた神の「約束の言葉」。「わたしは語ったことを必ず実現させ形づくったことを必ず完成させる」(イザヤ4611)

我々の学校は、日本という国に「神が形づくられた」学校である。そこには「歴史の主」なる神の「約束」が刻印されている。同時にイザヤは神の「警告の言葉」も伝える。「見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って自分で燃やす松明によって。・・お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう」(5011)

  我々は今、いかなる火を見ているのか。私は、自らの弱さの暗闇に戻るしかない。この暗闇に戻って初めて見えてくる「みことばの約束」の光が、目にしみる。


恵泉女学園中学・高等学校校長
キリスト教学校教育 2005年7月号3面


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