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第49回大学部会研究集会
主題「人をはぐくむキリスト教学校-横浜バンドに学ぶ-」
講演 幕末明治開国期
横浜における福音宣教と教育 
久保 義宣

「横浜バンド」とは

何なのか

 日本のプロテスタント教会の源流を「横浜バンド」と呼んで、熊本バンドや札幌バンドと並び取り上げられてきた。横浜でS・R・ブラウンやJ・H・バラの感化を受け、洗礼を受けた人々を「横浜バンド」と呼んで、後の日本基督教会に重要な役割を果たしたとされる(『キリスト教大事典』一九六三年)。

 熊本バンドの場合、熊本洋学校で米国陸軍士官であったL・ジェーンズの感化を受けた青年たちが一八七六年一月「奉教趣意書」に署名した。札幌バンドの場合、札幌農学校で農学者W・S・クラークの感化を受け、一八七七年三月「イエスを信じる者の契約」に署名した人々のことを言う。

 「バンド」というものを同志的結合と言うならば、その結合を束ねるもの、熊本には「奉教趣意書」、札幌には「イエスを信じる者の契約」をいう文書に署名したという結合があるが、横浜の場合にはそういうものが存在しない。

 熊本の場合も札幌の場合も「お雇い外国人」と呼ばれる者が学校に雇われて来日し、たまたまその人がキリスト者であったために、その感化によってキリスト教を信じる者のグループができたということであったが、横浜の場合は教会やその宣教団体(ミッションボード)が、福音宣教と教会形成のために派遣した宣教師たちの働きによる結果であった。S・R・ブラウンやJ・H・バラは正規の神学教育を受け按手を受けたキリスト教会の聖職者であった。その点が熊本や札幌の場合とは大分違うのである。

 また、熊本の場合も札幌の場合も一人の教師の感化であり、限られた期間のできごとであったが、横浜の場合は複数の教師たちによる継続的な福音宣教の働きであった。熊本の場合日本組合基督教会の源流として、また札幌の場合は無教会の流れに結びつく源流として考えられるが、横浜の場合は日本基督教会の源流と言えなくないが、むしろこの場合は源流というより本流そのものの始まりであった。そういう意味では、教会的視点から見るならばこの三つを並べてバンドと呼ぶことが適当であるかどうか問題含みである。特に横浜の場合は「バンド」と呼ぶにふさわしい「奉教趣意書」や「イエスを信じる者の契約」に並ぶものがない。あるのは宣教師たちから洗礼を受けたというきわめて教会的な営みがそこに始められたのであった。


横浜における

宣教師の働き

 横浜に最初のプロテスタント宣教師が到来したのは一八五九年、日米修好通商条約締結の翌年のことであった。その後十数年の間にアメリカ長老教会、アメリカ改革派教会(ダッチ)、アメリカバプテスト教会、イギリス聖公会、アメリカメソジスト教会、ローマ・カトリック教会等から多くの宣教師が派遣されてきた。

 派遣された宣教師たちは、正規の神学教育を受け、按手によって教会の聖職者に任じられていた者が多いが、そうでなかったレイマン(平信徒)たちも少なくなかった。医師(ヘボン、シモンズ等)や、教師たち(キダー、プライン、ピアソン、クロスビー、J・バラ等)も来日した。教育者として来日した女性たちは、当時女性に対する按手はまだ認められておらず、最初から教育者として召され、派遣されていたのであった。

 すなわち、最初から福音宣教に携わるのに、医療や教育が福音宣教と分離して考えられたのではなく、主イエスの場合福音宣教とそのしるしとしての癒しが不可分であったように、全人的な救いを目指して行われていた。

 その事情は韓国や台湾の場合も同じで、福音宣教とともに教育や医療が教会から派遣された宣教師たちによって担われてきた。

 最初の頃、直接伝道することのできなかった宣教師たちは、日本語を修得しながら英語を教え、聖書の翻訳などが直接伝道の準備として行われていた。医療や教育は福音宣教の手段として、補助的に行われたのではなく、それ自体を目的とする人達が教会や宣教団体から派遣されてきたということであった。

 後の教会が、特に日本基督教会の場合、福音宣教を医療や教育と区別し、伝道と教会形成に集中するような方向をたどったために、医療や教育が教会の本来の事業から分離されてきてしまった。横浜における宣教師による医療は後に横浜市立大学医学部の源流になったし、教育はフェリス女学院や横浜共立学園、捜真女学院などに受け継がれるようになってきている。

S・R・ブラウンと

J・H・バラの場合

 S・R・ブラウンは一八五九年十一月来日し、J・H・バラは一八六一年十一月に来日した。

J・H・バラは熱誠の伝道者として、横浜ばかりでなく、西へ箱根、三島から岐阜県の中津川あたりまで、北は盛岡までその伝道の足跡を残している。多少うつ的な傾向があって、そのために休養を余儀なくされるようなこともあったようだが、彼の日本語教師で、最初の受洗者となった矢野元隆の遺言「天国に行ったならば神さまにあなたのことを話します」(一八六五年十一月死去)に励まされ、途中で止めることができなくて、最後までその生涯を日本の福音宣教のために捧げることとなったのであった。

 それに対して、S・R・ブラウンの場合は、聖書の翻訳と伝道者の養成にその力量を発揮した。ブラウンの伝道者養成の元になったブラウン塾を始める時に、彼は「一人ブラウンが伝道するばかりでなく、十人、二十人のブラウンを作りましょう」と考えたと伝えられている。

ブラウンの始めた神学教育の営みはブラウン塾に始まり、一致神学校に受け継がれ、明治学院の神学部の源流となって日本基督教会の指導者たちを生み出すこととなった。植村正久を始め井深梶之助、押川方義らがブラウンの影響によって日本基督教会の神学的方向を決することとなった。S・R・ブラウンの遺言とされているのは「もし我に百の命あらば、その百をすべて日本の伝道のために捧げよう」と伝えられている。S・R・ブラウンはニューヨークの牧師時代の教え子キダーを日本に招くきっかけを作ったし、J・H・バラは横浜共立学園の創立者プライン、ピアソン、クロスビーらを来日させる手掛かりを作った。

結 び

 今日の日本の伝道の行き詰まりが、伝道と教会形成への集中が、医療や教育を教会の本来の営みから切り離してしまったことにその一端があるかもしれない。また、キリスト教学校の営みが本来の教会の営みから切り離されてしまっていることと、学校におけるキリスト教が形骸化しつつあることとは無関係でないのではないか。教会と学校の営みがそのどちらを欠いても、本来の使命を果たし得ないのでないだろうか。


日本基督教会横浜海岸教会牧師〉
 2005年12月号2面


キリスト教学校教育同盟