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キリスト教学校教育懇談会第3回公開講演会

カトリック学校とキリスト教(主義)学校
力を合わせて共に教育に励もう

-教育についての共同宣言は可能か-

倉松 功

一 われわれの共働の営みを励まし、力付けていることについて考えたい。

 カトリックとプロテスタントのエキュメニズムの動きである。第二ヴァティカン公会議の主な目的の一つは、「分かれた兄弟」との一致再建を促進することであった。日常のキリスト教生活、神学や歴史の研究におけるエキュメニズムの実践を訴えている。一九九九年十月三十一日に宗教改革ゆかりの地ドイツのアウクスブルクで調印された「義認に関する共同宣言」は、「十六世紀宗教改革期に相互の教会でなされた断罪、弾効は今日のパートナーには妥当しない」と語った(一九九九年)。

 次に、世界人権宣言(一九四八年)である。この宣言は、第二六条の教育で、被教育権と教育の目的として、人間の尊厳と人格の完全な発展と記している。わが国の教育基本法の第一条を思い出させる。

二 教育における連帯

1、人間は教育されねばならない唯一の被造物である。その被教育権の理由である。人間は神に似せて造られた。それゆえに、すべての人間は、民族、身分、年齢を問わず、教育を受ける権利を有していると第二ヴァティカン公会議の「教育に関する宣言」(一九六五年)は述べている。この点は、ルターにおいても同じである。ルターの解釈で興味深いのは、支配せよとの神の命令と教育を結びつけていることである。

2、世界人権宣言のいう親の教育優先権。カトリックは、両親の子供に対する教育優先権を「子供に生命を授けた。だから、両親は第一の主たる教育者である」と自然の権利(自然法)的に―すべての両親のこととして―説いている。それに対して、ルターは「父と母によって教育を設けさせ、両親に子供たちを教育するように命じた」として、神の命令としている。強調点の違いといえるかも知れない。

 教育基本法も国連の世界人権宣言も「人間の尊厳のゆえに人格の完成をめざす」教育の目的では一致している。しかし、尊厳の理由、根拠については何もいっていない。それは、宗教的にのみ可能である。人間の尊厳の聖書的キリスト教的根拠として(一)神の似像としての人間、(二)神の世界統治(創造の継続・世界の保持)の共働者としての人間、(三)キリストの救い、愛の対象としての人間(小さいキリストとしての人間)という三つのことがある。その聖書的根拠として、聖書と同時代の聖書の続編のこの点についての解釈は、注目すべきである(創世記1・2628、同9・6、知恵の書2・23、シラ書17・2、3)。ルターは、知恵の書によって神の創造の愛といっている。この創造の愛に続くのが、いうまでもなくキリストにおける救いの愛である。キリストは、私たち一人一人を小さなキリストとみなされた(マタイ2531以下)。

三 証しの共同体としての私たちの学校

 ここでは、礼拝のみに触れておく。キリストの現臨性、キリスト教の存在に触れる決定的な場が礼拝である。礼拝が、校事でなく、私的な営みにとどまっているとすれば、それはキリスト教学校とはいえない。クリスチャン・スクールでは、最良の時間を公的校事としての礼拝に捧げ、そこで真剣に聖書のみ言葉を伝えるようにしたい。

 おわりに、教育は一人一人の人間の根幹にかかわる営みであることは申すまでもない。教育は神から与えられた課題である。その課題にかかわることを許されていることは、神の祝福である。「教育職が、神によみされるかどうか知らないで、ローマ人やギリシャ人は真剣に熱心に教育した。それをキリスト教的に遂行し、それを適正になすことは、いかに必要で有益かつ神によみされることであろうか」といったルターの言葉を噛みしめたい。

(二月二十五日、明治学院大学にて。本稿は当日の講演を十分の一に縮小させていただいた。なお、全文はいずれ小冊子として出版される予定である。)

〈東北学院学院長任〉
キリスト教学校教育 2006年04月号3面


キリスト教学校教育同盟