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第47回中高研究集会

アイヌ民族の教育に情熱を傾けた人々
-J・バチラー、永久保秀二郎、小谷部全一郎の生涯から
福島 恒雄

 この度、キリスト教学校教育同盟の研究会に招かれましたことを光栄に存じます。

 ふさわしくない者ですが、長いこと北海道キリスト教史研究にかかわってきて感じてきましたのは、なぜ、先住民族であるアイヌ民族の教育にJ・バチラー先生を中心とした聖公会関係の人々が力を尽くしてきたのかということでした。北海道には一八七四年から沢山の優れた宣教師や教師が欧米からきました。差別と偏見のなかに苦しんでいたアイヌ民族に同情することがあっても、しかし、アイヌ民族の自立と尊厳をめざして学校を建て、教育者をおくり、民族の中から教育者、指導者を育てる働きをしたのは聖公会だけでした。この疑問を共に学びたいと思いました。

一、J・バチラー先生の生涯

 アイヌ民族の教育、福祉、伝道のために六十年間尽くしたJ・バチラー先生をぬきにしてアイヌ民族の教育は語られません。一八七七年に香港から静養のために函館にきたバチラーはアイヌ民族と劇的な出会いを経験します。七十五歳の時に出した『わが記憶をたどりて』の自伝にはそのことに触れ、アイヌ民族のため生涯を捧げる決心をした動機を三つあげています。

@アイヌ民族の救いのために、

A日本人が侮蔑しているので一人でもキリストの愛によって良き隣人になること、

Bアイヌ民族の独自な文化を世界に紹介したいこと、

です。

 そしてアイヌ民族のコタンを訪ね、言語、習慣、伝統、宗教などを学んでいます。平取では有名なペンリュウク長老から学び、幌別では金成太郎からアイヌ語を学び、やがて『アイヌ語文典』『蝦和英辞典』を出し、新約聖書や祈祷書をアイヌ語に訳しています。さらに全道のコタンを訪ねアイヌ学校の設立を考え、多くの協力者を得て十二の学校が建てられます。その生徒の中から優れた教育者や伝道者が出ています。老年期を迎えてもアイヌ民族の教育と福祉のために情熱は消えませんでした。

二、永久保秀二郎の歩んだ道

 歌人石川啄木は「釧路に行ったら春採の漢学者に会ってみたい」と書いていますが、この漢学者こそ春採アイヌ学校に三十年間教師として働いた永久保秀二郎のことです。永久保は終生アイヌ民族の教育に尽くし、春採に骨を埋めました。中村一枝姉の『永久保秀二郎の研究』にくわしくその生涯が記されていますが、宮城県に生まれ、函館の小学校教師をしていた時聖公会の信徒となりました。一八九一年に聖公会の女学校が釧路に設立され、校長としてミスペインが赴任し、アイヌ学校も建てました。その教師として招かれたのです。心から生徒を愛し教科書も独自なものを作っています。

 漢詩をよくし、中央の詩壇にものせ高く評価されています。土地の人々に深く敬慕され春採湖の畔にアイヌ民族の手により頌徳碑が建てられています。


三、小谷部全一郎の軌跡(会衆派教会牧師)

 一九〇〇年に「アイヌ救育会」を設立し、翌年洞爺湖の近くに虻田学園を建て、小学校と実業補修学校をつくりアイヌ民族の教育に尽くした小谷部全一郎は米国で苦学し、師範学校、ハワード大学、エール大学で学位を得てきた人です。ハワイと横浜で牧師として働きましたが、アイヌ民族の教育に情熱を燃やし十年間虻田に住んで教育に尽くしました。しかし、その理想は理解されないままに挫折したといわれています。

 東京に帰り沢山の著書を出していますが、晩年までアイヌ民族のために祈った人です。共に働いた白井柳二郎と吉田巌はキリスト者ではありませんが著名なアイヌ教育者となっています。また虻田学園からすぐれた指導者がでています。

 聖公会からは沢山の教育者がでていますがここでは、特徴ある三人の人をあげました。北海道で働いた宣教師はC・M・S(英国教会伝道協会)に所属していましたがその歴史と宣教の神学が優れた奉仕をなさしめたものでありましょう。

〈日本基督教団引退教師〉
キリスト教学校教育 2006年5月号2面


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