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第47回中高研究集会
発題要旨
キリスト教会学校に遣わされて
八尋 孝一

高校三年生で洗礼を受けてキリスト者になってから、キリスト教学校に勤務したいと祈り求めてきた。教師になって二十年。福岡の新設男子校やカトリック女子高等、様々な学校の勤務を経て、七年前に関西学院に赴任。この間に経験した多くの先輩教師や生徒たちとの出会いが、自分を教師として育ててくれた。

教師として、時折どうしてよいかわからない問題に出会う。そんな時、目の前の生徒に何を語り、どう動くべきか、いつも「正解」を求め迷うことが多かった。しかし、最近、「何をどうするか」以前に、「どのような存在として生徒の前に立つか」がより大切だと感じる。自分の存在をかけて生徒に語らなければならない場面がある。存在をかけなければ生徒に響かない言葉がある。ルカ福音書6章45節には、人は自分の心の倉から言葉を取り出す、とある。自分の倉にないものは語れない。自分の倉に何が入っているのか。「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」(ピカート)…自分の中に、どんな沈黙を宿しているか。私自身は、「〈礼拝する存在〉として生徒の前に立つ」ことを大切にし、最善を尽くして日曜礼拝や日々の個人礼拝を守る。若い頃、「自分の情熱で生徒を変えてやろう」と力み、失敗した。

以前の勤務校で、一人のシスターが語られた次の言葉は忘れられない。「華々しい結果よりもプロセスが大切です。バベルの塔のように、力を見せる、有名になろうとして神様が大事にしているものを大事にしないとき、必ず通じあえなくなる。生徒ひとりひとりは聖なる土、能率的、効率的にやるとつぶれてしまいます。人はダウンすることもある、ある瞬間には倒れてもよいのです、深く立ち上がることができれば。」

自分の圧力で勝負する危険から免れるためにも、絶えず聖なるものの前にひれ伏す存在として、生徒の前に立ち続けたい。

数ある教師の仕事の中で、最もこだわるべきは授業だと感じる。教師になりたての頃、世界史授業がなかなかうまくいかず、同僚のベテラン教師の授業をほぼ毎時間見学、録音して授業のやり方を学んだ。授業に限らず、HR経営や生活指導等、教師間の「技の継承」がもっと重視されてよいのではないか。私学は狭い世界。そこに安住する危険を自分の中にも感じる。積極的に外に出たい。様々な研修会を通じた他校の先生方との交流に加え、教師以外の方々との交流も。私は礼拝に出席している教会に加え、手話サークルに所属しているが、そこで出会う様々な年齢や職業の方々との交流は貴重。教師は多忙だが、無理してでも時間をつくり、自分の中に「隙間・空間」をつくらないと、生徒が入って来る場所がない。

最後に、キリスト者教師として、祈り続けたい課題。@キリスト教学校が、生徒の存在に響く「新しい言葉」を語ることができるように。A現実は厳しいが、あの事もこの事も、あの人もこの人も、主の御手のうちにある確信が与えられるように。Bキリスト教学校の教師集団が、信頼関係で結ばれた真の共同体となるように。


〈関西学院高等部教諭〉
キリスト教学校教育 2006年5月号3面


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