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今日の初等教育に必要なもの
-同志社小学校の試み-
鈴木 直人

学校法人同志社は、幼稚園、四中学校、四高等学校、二大学を擁する総合学園ですが、小学校だけはありませんでした。一八七五年同志社英学校を創設した新島嚢は、「基督主義ノ学校ハ幼稚園ヨリ大学ニ至ル迄実ニ必要ノモノ・・・」と小学校の設立を考えていました。新島の志を継承する同志社にとって小学校の建設は、懸案の事項でしたが、様々な事情により実現しませんでした。創立百二十五周年(二〇〇〇年)を機会に、再び小学校建設が議論され始め、丁度、二〇〇二年の文科省による設置基準の明確化により、小学校の建設が具体性を持つに至り、二〇〇四年五月二十九日の法人理事会で機関決定がなされました。

同志社に限らず大学が、附属の小学校、中学校、高校を作る理由は、その学園の建学精神を持った人物が、大学においてその精神を伝えるコアとなってくれることを期待しているといって過言でないと思います。ただ、私たちは、可能性のある若者を、何も同志社という狭い殻に閉じ込める必要はないと思っています。同志社小学校が提供する本物の体験を通して伝統芸能など、他の道に興味を持ち、そちらの道に進むならそれはそれで同志社の教育の成果ではないかと思います。

今日の教育では、子育てに関する「方法論」や「技術論」など、早期からの「How toもの」が花盛りです。しかし現実の教育は、教えるものと教わるものの関係性によって、とりわけ小学校の教育では先生が子ども達とどれだけ向き合える存在でありうるかによって決まると思います。常に子どもに注意を向け、子どもを一人の人間として大切に思い、正面から子どもと向き合う先生の存在、これこそ小学校教育にとって最も大切なものではないでしょうか。これは本来の小学校教育が目指していたものではないかと思います。こういう意味で同志社小学校が行おうとしている教育は、特段珍しいものではなく、「当たり前のことを、当たり前に教育する学校でありたい」と考えています。昨今の青少年の犯罪、われわれ大人から見て理解に苦しむような数々の犯罪。いったい何が原因なのでしょうか。それは当たり前のことを当たり前に教育できないような環境を作り出してきた、現代教育の「ひずみ」の結果そのものではないのでしょうか。私達は、当たり前のことを当たり前に行う教育こそ大事であると思っています。そして、ふれあいの中から現代社会にとって最も必要な、誰もが「人ひとりの大切さ」を覚えることのできる人物を養成していきたいと考えています。

 同志社の建学精神は、キリスト教主義、国際主義、自由主義、あるいは新島精神、良心教育などいろいろな言い方がされますが、同志社は「人を植ゆること、人を育てること」を目的とした学園であり続けたと思います。つまり同志社教育の特徴は知育のみでなく、キリスト教に基づく徳育(心育)の二つを教育の両輪と考えていることです。「知識あり、品行あり、自ら立ち、自ら治むる」の精神を持った人物の涵養、学力を含めた人間力を高める教育が本学の目標です。

二〇〇四年十二月OECD(経済協力開発機構)の国際的な学習到達度調査の報告以来、急遽、ゆとり教育の見直しが叫ばれ始めました。ところが、その翌週に発表されたIEA(国際教育到達度評価学会)よる国際数学・理科教育動向調査の結果はあまりマスコミで取り上げられていません。その結果を見ると、今問題となっている子ども達の学力の低下は、「勉学の楽しさ」、「勉強への積極的姿勢」といったものが極めて低いところに本質的な問題があるのではないかと思います。詰め込み主義、結果重視の教育によって、勉学そのものに対する興味を失ってしまっているというのが今の初等、中等教育ではないのでしょうか。同志社小学校では、子ども達に「学ぶことの楽しさ」を与えたいと考えています。これを、私達は「道草の教育」と名づけています。先生達が個々の子ども達と向き合い、子ども達全員で物事の本質に触れ、本物に触れる教育により、「学ぶことは楽しい」という子ども達の内発的な学習意欲を作り出していきたいと考えます。この道草の教育は、将来子ども達の生きる力としての人間力はもちろん、今の狭い意味での受験学力すら、今の詰め込み式の教育を凌駕するものとなると考えています。

〈同志社小学校校長〉
キリスト教学校教育 2006年5月号4面


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