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特別講演
学校教育に期待するもの

熊本県知事 潮谷義子氏
 
  今日、子どもたちが本当に愛されているのかどうか、本当に命のかけがえのなさということが感じ取られているのかどうかが問われている気がします。コリントの信徒への手紙一13章2節の中の「愛がなければ、無に等しい」という出来事を、私がかつて勤務しました慈愛園という施設でたくさん経験させられました。本来、家族の中でかけがえのない愛情をいっぱい吸収するから、子どもたちは家族愛を感じ、やがて保育所や幼稚園の中で、仲間愛を感じていきます。そしてたくさんの仲間愛の中から、特別に自分にとっての大事な愛、異性愛を経験します。そしてその異性愛の中から、地域も国籍も宗教も年齢も超えた、無上の「好きだから好き」という国際的な愛や人類愛を獲得していきます。これが本来私たちが求める愛という姿ではないかと思うのですが、今、子どもたちはその根っこのところで、愛を得る機会を失っています。家庭が家庭としての体をなしていない姿を目の当たりにして、先生方の中には、根っこがだめになっているから仕方がない、という思いを持つ方があります。しかし子ども達が、「先生」との人格的関係を、今ほど求めている時はないと思います。

 ところで教育を受ける、あるいは教育をすることは、当然の権利、当然の義務となっていますが、本当にそうなのでしょうか。学びたいと切に求めても、学べなかった時代があります。慈愛園の創立者、モード・パウラス先生は、売られていく女性たちを助けるために施設を始められました。学びたい、そう思っても、貧しさ故に売られていく女性たち。熊本県にも、暮らしのために子守に売られた悲しみを歌い上げた「五木の子守歌」があります。学ぶということは当たり前ではないし、教えることも当たり前ではない時代があったのです。ほんの一昔前、施設の子どもたちが十五歳になりますと、私たちは「十五の春を泣かすな」という言葉をお互いにかけ合い、子どもたちのための寄付をお願いしました。十五歳になると、子どもたちは卒園しなければなりません。その後は身元保証人が教育費を出してくれなければ学べなかったし、寝る場所と就労する場所を確保しない限り生活していくことができないのです。そこで施設の職員たちは、身元保証人になって子どもたちを就労先にお願いいたします。でも卒園した子どもたちが借金を残しアパートを空にする、そんな経験を何回したでしょうか。十五の春に泣いた優秀な子どもたちは沢山います。もちろん今では学ぶという機会が与えられ、子どもたちはそれを当たり前として過ごしています。でも、もしかしたら今、何のために学ぶのかを分かっていない子どもたちが、沢山いるのではないでしょうか。命の不思議さや命という組み立てを誰がして下さったのかを、きちんと受け止めていないのではないでしょうか。だからこそ進学のための偏差値教育ではなく、生きていくための偏差値教育が大事ではないかと思います。

 何のために学ぶのか。それは一人一人の命に頭を垂れるために学ぶと私は思っています。一人一人の命に頭を垂れるということ、神さまがその命を私たちの中に組み立てて下さったことの実感をどう伝えていくのかが、今問われているのではないでしょうか。

 長い福祉の経験から「クライアント・センタード」、つまり「利用者こそ中心」ということを学びました。だから知事になった時、県政の柱を「県民主体・県民中心」とし、また県の基本的な目標を「創造にあふれ命が脈打つ熊本」と掲げました。「創造」という言葉には、ものを創り出したり、思いを馳せるという意味を込め、「命が脈打つ」には、どんな人でもその一人一人の命が自己実現を図っていくことができる社会を作っていきたいという願いを込めました。その実現のための手法は、アメリカの重度障害者の建築士のロン・メイスが提唱した「ユニバーサルデザイン」に求めました。「年齢差、性差、障害の有無にかかわらず、一人ひとりの存在を大事にし、すべての人が生活しやすい社会をつくる」というユニバーサルデザインの考え方を県政の運営方針に置いたのです。その根幹は、人権です。また大切な視点は、ユニバーサルデザインが到達のない目標であるということです。その時代の経済、社会システムの中で、よりよいものを求めるということですから、絶えず検証するというプロセスを重視しなければなりません。建学の精神は子どもたちの中に分かりやすく届いているでしょうか。建学の精神は保護者にしっかりと共感されているでしょうか。学校はこんな思いで教育していますという、自信にあふれた確たるものはあるでしょうか。職員の方たちは、自らの位置でしっかりと胸を張っていらっしゃるでしょうか。ユニバーサルデザインという考え方では、こういうことを絶えず検証することが大事なのです。

 建学の精神は、創立者だけが考えたのではなく、それぞれの時代の中にある課題をきちんと分析し、それぞれの時代の中で、私たちの学校はこんな役割を果たしていきたいという願いを持って存在していると思います。まさに学校のオリジナリティ、原点として、それぞれの学校に根付いているものと思います。そしてキリスト教学校の建学の精神は、まさに心の豊かさを学校創立の時から標榜し続けていると思います。ですからキリスト教学校として命の不思議さ、命の育ちのすごさ、そしてどんな環境にも順応してしまう人間の持つ可能性と可塑性、良い環境にも悪い環境にも適応してしまう恐ろしいそしてまた素晴らしい人間の姿、そういったものをもう一度しっかり考えていくことが、非常に大事ではないかなと思います。

 「教育に期待するもの」、それは子どもに向かって、「あなたを愛しているよ。あなたはかけがえのない存在なんだよ」、というメッセージを送り続けていくことだと思います。

さらに皆で命に頭を垂れること、そして「一人一人いろんな姿があるということが当たり前の社会なんだよ」、ということを伝えること、「どんなことがあっても居場所はあるんだよ。もし家庭の中に居場所がないのならここにあるんだよ」ということも伝えることだと思います。教育は人生が終わるまで、人格の形成というところの中にあります。費用対効果という目先のことだけで計れないものが教育です。やってもやっても答えてくれない、やってもやっても変わらない、そんな子どもたちの姿や出来事の中で、意欲を失ってしまうようなことがあるかも知れません。でもその子どもたちの一生が終わった時、先生たちの努力が虚しいものであったのかどうか、実際には分かりません。

今どこの学校でもたくさんの問題と苦難があると思います。でも「信仰に生きるとは、自分の命より大切なものを持つことですよ」、というメッセージの中で洗礼を受けた私たちです。それぞれの学校の建学の精神を、その学校の働き人すべてと共有し、一人一人の命に頭を垂れていくことこそ、私たちに与えられている大きな役割ではないでしょうか。

キリスト教学校教育 2006年7月号3面


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