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閉会礼拝奨励

この宝を土の器に
Uコリント4:7〜9
内村 公春
 
 この閉会礼拝の題の「この宝を土の器に」は、今お読みした、コリント人への手紙の中からとったものです。またこの表題は、九州学院の二代目の学院長だった稲富肇先生の遺稿集の表題にもなっているものです。

 この稲富肇先生が歩んだ道は、重い十字架を背負って歩く道でした。あの戦争の時代にキリスト教学校を維持していくのは大変なことでした。学校・生徒・卒業生をどうして守っていくのか・・・必死に祈り、神に問いかける時代だったといえます。

 学院の歴史の中でも一番辛く厳しい時代を生き抜いた稲富先生は、一人の人間の大切さを実感されたでしょうし、初代の遠山先生と同じく、一人一人の生徒を「一匹の羊」として大切にされました。また先生は、説教集の中で、次のように語っておられます。

 「われというみにくく弱い枝が、ひとたびキリストにつながる時に、重い十字架を喜んで背負うキリスト者とされるのです」と。また、「キリスト信者は、この失望と絶望の外なき世に、確信を以って強く生きなければなりません。『なんじら腰に帯し、燈火をともして居れ』との言葉を実践しなければなりません」と。

 このことは、今、私たちを取り巻く状況の中で、学校、生徒・卒業生をどのようにして守るかという問いを抱えることと同じであるのです。改めて問わなければなりません。この「失望と絶望の外なき世」に、キリスト教学校として、どう灯火を掲げていくのか。どう生徒に語っていくのか。その応えをいつも手探りしています。

 でもそんな私に、聖書は語ります。このような、もろく壊れやすい「土の器」に「宝」をいただいていることに感謝すること。そしてどのような困難な状況であっても、神様の導きがあること。「弱く醜い枝の私ですが、キリストにつながることによって、どうぞ重い十字架を背負わせて下さい」と、必死に祈り求めることを。

 聖書は、私たちを「土の器」と呼びます。「器」というものは、そこに何が入っているのか、その「器」で人々に何を手渡すのかが大切です。窯元に行きますと分かる通り、「土の器」は熱を加えることによって、より強い「器」になっていきます。つまり「土の器」にとって、本来の器になるためには「熱」が重要な意味をもつのです。だからこそ「土の器」に過ぎない私たち教師ひとり一人が、「熱つまり熱意」によって強められることが大切なのです。

 私たちキリスト教学校教育同盟につながる学校の教師一人一人が、この総会も含め、様々な集会において「熱」を共有し、強められ、それぞれの場所にあって、「地の塩、世の光」として「迷える子羊である」生徒や学生を励まし続ける教育を担うことが出来るよう、神さまに祈りたいと思います。


〈九州学院院長、中学校、高等学校校長〉
キリスト教学校教育 2006年7月号3面


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