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第76回夏期研究集会主題講演


キリスト教学校だからこそできること

-確信を深く、協力を広く-


近藤 勝彦

 本年度夏期研究集会は7月2729日、御殿場・東山荘で開催された。参加者は三十五法人より九十三名であった。

1、現代の教育問題の根本は何か

「現代の教育問題」は、少子化に伴う定員割れ、学習レベルの低下、学級崩壊、性のモラルや対人道徳の崩壊、青少年犯罪の頻発、体力の著しい低下、人格の陶冶に関わる教養の混乱、家庭の崩壊、青少年のサイコセラピューティックな病状などに現われています。これら諸問題の根本をどこに見出すべきか、その見方の中に教育者や教育機関の思想が表現されるでしょう。現代の「人造り」の考え方そのものに問題があると思います。誰が人を造るのか。社会、時代、あるいは国家が造るのでしょうか。「超越次元を喪失した教育」が問題です。

2、キリスト教学校の教育の根本的信念

キリスト教学校は、「キリスト教」という名称を飾り言葉として付けているのでなく、本当にキリスト教学校であるならば、教育に関する「キリスト教的信念」をもっているはずです。それは、神が人間をご自身に似せて造り、そして完成されるのであって、教育活動は本来、この「神の人造り」に用いられるという信念です。「神のものは神に」は、教育の中でも貫かれるべきです。人間には「皇帝の肖像」はついていません。「神の肖像」がついています。「御子をさえ惜しまず死に渡された方」により「御子の犠牲」が捧げられています。人間は神の愛と義の中で神に対応する人格として、他者を愛する人として、神によって育てられるべきです。

3、キリスト教学校のエッセンシャル・ミニマム

 キリスト教学校の信念は、具体的には「祈り」となって示されるでしょう。教育に仕える者が「密かに」祈ることは不可欠なことです。しかしさらに重要なことは、密かにでなく、「学校の公の行為」として、生徒、学生、同僚のために、彼らが共にいるところで、神の前に祈ることです。公に生き生きと祈るためには、神の御言葉を聞かなければなりません。聖書が読まれなくてはならないでしょう。「祈り」は「礼拝」になります。「祈り」と「礼拝」が、キリスト教学校をキリスト教的に支えます。それがなければ、「キリスト教学校」を自称することはできないでしょう。キリスト教学校は「神の前に公に祈る学校」です。そのためにキリスト教学校にはクリスチャンの働き手が必要です。そうでない人もキリスト教信仰をできるだけ理解し、尊重してくれるのでなければなりません。

4、日本国憲法と教育基本法

学校の公の行為として祈り、礼拝すること、また学校にキリスト者を求めること、それは「日本国憲法」と「教育基本法」の規定によって承認された法的、社会的な権利です。キリスト教学校は、「キリスト教学校だからこそできる」ことをしなければならないし、することができます。そのための特別な人事や機構造りをすることができます。キリスト教学校の設立趣旨を達成する権利は、法的に承認されていますが、そのための戦いは常に学校の中でなされなければなりません。
 キリスト教学校の中には繰り返し、キリスト教的信念に従うだけでは学校はやって行けない、それ以外に優先順位第一のことがある、キリスト教は付け足しに近いものとなっても仕方がないという考え方が生じます。ですから、キリスト教学校としての本質や特質を維持し、確保しつづけることは、いつでも戦いです。

5、キリスト教学校のミニマムからマクシマムへ

キリスト教学校は、エッセンシャル・ミニマムだけで十分というわけではありません。「礼拝」は、学校生活の中心的な時と場所でなされるように工夫されるべきでしょう。いくつかの学校に見られる昼休みを多少延ばして礼拝のための時間としているのは、礼拝のための時間の取り方として適切でしょうか。「神の人造り」は、そのための「キリストの犠牲」にあずかる「洗礼」と結びつき、キリストの命に生かされる「聖餐」を必要としています。従って、キリスト教学校の教育は「教会」と結びつかなくては貫徹不可能です。そこで、児童・生徒・学生に、当然また教育の同労者にも「教会」への出席を心から勧めるでしょう。
 キリスト教学校の教育は、教科としては一つの科目(「聖書科」や「キリスト教概論」)だけに期待されるわけではありません。他の教科もそれと連携して遂行されなければならないでしょう。倫理・道徳、歴史、社会、そして自然科学もそうです。キリスト教的視点から視て、その意味や方向が示されます。キリスト教学校は、信仰が知性と結びつき、文化や歴史の形成にあずかってきたことに注目すべきです。その他、教育と行政のための「各種の委員会」も祈りと信仰の判断によって、キリスト教学校だからこその委員会として内容的にも運営なされるべきです。

6、「理想の爆弾」でなく、感謝と喜びを失わず

キリスト教学校の「理想」を思い描くと、学校の現実がそれとは遥かに遠いと感じることが多いに違いありません。しかし理想が実現しなければやっていけないのではありません。「理想」を爆弾にして、学校の現実や自分を破壊すべきではありません。もしそこに「点」としてであっても、「祈り」や「礼拝」がなされていれば、現になされていることに感謝し、喜ぶべきです。そして「点」が「線」になり、さらに「面」になることを忍耐して、希望すべきです。


東京神学大学教授
キリスト教学校教育 2006年9月号1面


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