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聖日礼拝説教

いと小さき者に仕える
マタイ25:31〜40
富田 正樹
 
 今朝読んだ聖書の箇所では、「人の子」と呼ばれる王が天使たちを従えてやってきて栄光の座につきます。そして人間を右と左に分けます。

右側に判定された人たちに、大王はこう言います。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

そう言われた人々は不思議に思って、「主よ、わたしたちはいつあなたにそんなことをしましたか?」と問いかけます。

すると「主よ」と呼ばれたこの王は、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えた……そういう物語です。

今の時代の日本の子どもたち、特に私たちのキリスト教学校のような私立学校に来る子どもたちは、経済的には恵まれている子どもが比較的多いと思います。しかし、私は思います。「いまの子どもたちは、本当は貧しいんじゃないのかな?」。

日本の子どもの多くは、親やその他の大人たちによって経済的に支えられているのであり、自分で自分の生活を立てる必要はありません。

しかし逆に言うと、食べるものも学費も、周囲の大人に依存しながら生きていかざるをえない存在とも言えます。ですから、自分の生活費や学費を出してくれている大人の思惑や期待に反して生きることはとても難しい人たちだと言うことができます。

私は、そんな子どもたちが、生徒たちは集団では教室で騒いだり、反抗的な態度を取ったり、挑発的な態度をとったりするけれども、基本的には弱い立場におかれているのだなと思うわけです。

実は日本の子どもの多くは、「勉強」という形の労働を搾取されているんじゃないだろうか。「学ぶこと自体の喜び」なんてことはどこかに置き忘れられて、ただ命令どおりのノルマをこなし、点数をかせぐための労働を課された貧しい人びとなのかも知れない、と感じるのです。

しかし、そうは言いながらも、子どもたちは、彼ら彼女らを押さえつけてしまいがちになる私たち大人の思惑に反して、時折すばらしいたくましさや面白さを示してくれることがあります。

大人たちがこうあってほしい、こうしてほしいと思う隙をついて、子どもたちはとんでもないアイデアを思いついたり、こちらが驚くような計画を立てていたりします。それは、硬直化してしまった大人の心からは出てこないような、柔らかい遊び心に満ちた発想です。

大人にとっては、毎年同じような仕事として片付けてしまえるようなことでも、子どもたちにとっては一生に一度しかない大事な学校生活のひとつひとつであるわけです。将来のためにガマンしたり、努力したりすることも大切なのですが、子どもたちにとっては「いま」この時間をどう過ごすかということも、とても大切なんですね。

聖書の書かれた物語にある、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて」あげること。

それらはいずれも、相手が本来の姿を損ねているときに手助けをすることに他なりません。その人が自由を奪われていたり、自分のありのままの力を発揮できずにいるときに、その自由と力を取り戻すための手助けをすることです。

そのことによって、私たちの前にいる小さな者である子どもたちが本来の力を取り戻して、自由に自分の可能性を広げることができれば、彼ら彼女らは私たちの予想を上回って大きく成長し、私たちに大きな喜びを与えてくれます。私たちは目の前の小さな者たちに、実は大きな希望を与えられるのではないでしょうか。

子どもたちが自由に生き生きと、自らの可能性を広げることができるように、それぞれの持ち場で「仕える」者でありたいものです。そうすれば、きっと何倍もの喜びが、私たち自身に返ってくるはずです。

〈同志社香里中学校・高等学校宗教主任、聖書科主任〉

キリスト教学校教育 2006年9月号2面


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