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夏期研究集会に参加して
-ひとこと-

夏期学校に参加して
田 中 依 子

「キリスト教主義」学校で事務職員ができること、すべきこと。学校という場に様々な期待、思いを持って通ってくる学生・生徒・児童に、直接「教える」経験のない私たち事務職員はその精神をどうあらわしていけるのか。参加するにあたり、同盟よりいただいたテキストや持ち物のひとつ、建学の精神が書かれた自校の学校案内で「キリスト教学校で働くとは?」という今回のテーマを考えてはみたものの、自分の思いは定まらず、他の参加者の方とお話しするのが不安になるばかりだった。

しかしこれは参加前のこと。全てのプログラムを終えた私の心は霧が消え、すっきりと晴れてきたように感じた。「キリスト教主義」、「建学の精神」、「事務職員として働くということ」、それぞれが接ぎ接がれ繋がって、一本の木として意味を得たように思えたのだ。

与える喜びは与えられる喜びをはるかに超えるということ。与え尽くせば(「サーバントに徹する」ということ)新たなものを学び吸収する力は増し、社会に提供できる能力は以前を上回る。それを繰り返し、良循環を作っていく必要性。重要なのは、全ての人が社会に役立っているという喜びと感謝を持つ、与える・与えられる役割が分かれていない全員参画型の社会。そして土台となる精神。キリスト教主義学校においては建学の精神。戦中には外圧によって消えかけたその主義と精神はまた今、権利ばかりを主張し与えられることばかりを求める社会の中で、先人の苦労は顧みられずに「内側」から破綻しかけているということ。「内側」とはつまり、私たち教職員、学生・生徒・児童。教職員同士がサーバントに徹し、支え合うアクションを起こしていけばこの危機を乗り越える力となり、また教室で直接「教える」ことのない私たち事務職員がその精神を実践し彼らに示すことによって、「育む」という側面から教育を支え得るということ。

本校の建学の精神、「良心を手腕に運用する人物の養成」に立ち返って考えてみると、教職員が与え尽くしたものを社会に向けて与え尽くす=「ペイフォワード」する人物こそを養成する意味なのだと、先生方の講義、説教、グループ討論など夏期学校で学んだこととが劇的に結びついた。この建学の精神はおそらく創立者が自身のキリスト教体験を通して表したもの。私もこの校礎を自らの軸として持ち続けようと思いが定まった

最後に、この素晴らしい学びと出会いに感謝しますとともに、講師の先生方、お世話下さいました同盟の方々、参加者の皆様にお礼申し上げます。有難うございました。

〈同志社高等学校経理〉

〈同志社高等学校経理〉
キリスト教学校教育 2006年10月号3面


キリスト教学校教育同盟