ホーム < キリスト教学校教育 < 06年12月号 < 2面

第50回大学部会研究集会
主題「幅広く学ぼうキリスト教学校の意味」

-アメリカン・ボードの足跡を訪ねて
 

講演T
アメリカン・ボードと日本

-その働きと精神
 
同志社大学名誉教授 北垣 宗治

アメリカン・ボードとは?

海外宣教を目的とする超教派の宣教団体として、ボストンに本部を置いて一八一〇年に創設されました。アメリカの宣教団体としては最古のものです。インド、セイロン(スリランカ)、サンドイッチ諸島(ハワイ)、中国、トルコ、アフリカ等への宣教を推し進め、日本宣教は一八六九年、D.C.・グリーン宣教師の派遣をもって開始しました。アメリカン・ボードは超教派とはいいながら、初めから会衆派が中心であり、会衆派の宣教団体といっても差し支えないほどです。

 一八五九年に日本にやってきたプロテスタントの宣教師たちは開港地に住み、日本語を学びつつ、意欲的な日本人に英語を教えたりしながら伝道ができるようになる日を待っていました。長崎のフルベッキやウイリアムズ、横浜のヘボンやブラウン等です。日本宣教に出遅れたアメリカン・ボードは、やむを得ず開港地神戸、次いで大阪川口の居留地に根を下ろして活動を始めました。アメリカン・ボードと最も関係の深いキリスト教学校である神戸女学院、同志社、梅花学園が関西に存在するのは、そのような事情によります。

 アメリカン・ボードは一九六一年に改革派の宣教団体と合同して、「米国合同教会世界宣教委員会」(UCBWM)となりましたが、その後さらに他の宣教団体と合同して、一九九六年には「グローバル宣教合同委員会」(CGMB)となりました。本日の講演は日本における初期のアメリカン・ボードの働きに限定することにします。

教会形成のための支援

関西における最初のプロテスタントの教会は摂津第一公会で、グリーン宣教師を仮牧師として一八七四年四月に出発しました。これは発展して神戸教会(日本基督教団)となりました。大阪の梅本町公会(摂津第二公会)は同年五月M.L.・ゴードン宣教師を仮牧師として発足し、発展して大阪教会(日本基督教団)となりました。摂津第三公会はO.H.・ギューリック宣教師を仮牧師として一八七五年七月に始まり、これは摂津三田教会(日本基督教団)へと発展していきました。それら三つの公会よりも少し遅れて、同志社英学校の生徒と市民から成る京都第一、第二、第三公会が一八七六年秋にできました。このように、最初の頃は、横浜・東京からの影響でしょうか、教会でなく、公会という言葉が使われていました。

三つのキリスト教学校

 アメリカン・ボードの宣教師たちのイニシアティヴによって出発した最初のキリスト教学校は、タルカット女史とダッドレー女史が神戸の花隈村で始めた「神戸ホーム」で、これは旧三田藩主、九鬼隆義の出した金と、アメリカン・ボードが出した金によって作られた寄宿学校でした。九鬼は宣教師デイヴィスを深く信頼し、キリスト教の真理に帰依したのでした。神戸ホームは女性宣教師たちの献身的な働きにより、ミッション・スクールとして堅実な発展を遂げ、現在の神戸女学院に成長しました。

 京都の同志社英学校は、アメリカン・ボードが任命した準宣教師である新島襄と、京都府に影響力を持つ山本覚馬と、アメリカン・ボード宣教師デイヴィスという、三者の協力によって、内陸部にある千年の旧都に創設された学校でした。開港地でない京都に外国人宣教師が教師として居住するためには、日本人の雇いとなる必要があり、初期の同志社で教えた宣教師たちはすべて、新島襄の雇いとして官庁に届け出たのです。デイヴィスを筆頭に、ラーネッド、ゴードン、グリーンといった宣教師が同志社英学校で教えました。同志社の女学校はデイヴィスがスポンサーとなり、寄宿学校のかたちを取りましたから、最初は「京都ホーム」と呼ばれ、スタークウエザー女史が中心となって指導にあたりました。同志社の最初の卒業生たちは組合教会の中心的指導者として成長していきました。

 第三の学校は大阪にできた梅花女学校で、梅本町教会と浪花教会の信徒が共同で推進したので、一字ずつ取って梅花という校名ができました。中心となった日本人は浪花教会牧師の澤山保羅で、澤山の同労者だったレヴィット宣教師とともに、学校と教会の自給主義を強く打ち出し、ミッションから金銭的な支援を受けることを拒否しました。これは新島襄の行き方とは対照的でした。

 その他、松山東雲女学校、松山夜学校、前橋の共愛女学校、熊本英学校、仙台の東華学校、新潟の新潟女学校と北越学館、神戸女子神学校等でもアメリカン・ボードの宣教師が献身的に働きました。

 アメリカン・ボード宣教師たちはピューリタニズムの伝統に立ち、その教育機関は日本人に神を畏れ隣人に仕えることを教え、近代日本の「良心」を養成してきたといえます。

講演U
ボストンから見た京都ステーション
-アメリカン・ボードと同志社 
同志社大学神学部教授 本井 康博

同志社の創立者、新島襄は、実は牧師、それも日本人初の「宣教師」です。ここから初期同志社に特有の矛盾が派生いたします。

新島は幕末の江戸で生まれ、七五三太(しめた)と命名されました。育ちも神田の安中藩邸ですから、「上州系江戸っ子」です。二十一歳のときに、欧米文明や英語、自由、キリスト教などに憧れて、国禁を犯して函館から密出国いたしました。上海で、運よく乗り換えたアメリカ行きの船の船長から、「ジョウ」と呼ばれました。船のオーナーが、ボストンの富豪、A・ハーディーだったことが、以後の新島(したがって同志社)の骨格を決定します。

一年後、ようやくボストンに着いた新島は、留学志望を船主に率直に伝えました。船長の推薦も功を奏して、新島はハーディー夫妻から家族(養子)同然に受け入れられます。新島は養父から「ジョゼフ」と呼ばれましたので、留学中は英語で「ジョゼフ・ニイシマ」と名乗ります。

ハーディーは、会衆派教会の篤実な信徒で、ボストン周辺にある三つの学校(会衆派)の理事でもありました。だから、新島は会衆派教会で洗礼を受け、三つの学校(高校、大学、神学校)で次々と学びます。その結果、牧師資格を取得したばかりか、アメリカン・ボードの準宣教師にも任命されます。この団体は、ボストンに本拠を構える会衆派系ミッションで、当時の理事長は新島の養父でした。要するにアメリカでの新島は、「ボストニアン」同然でした。十年振りの帰国にあたって、新島はハーディーからミドルネームを貰い受け、「ジョゼフ・ハーディー・ニイシマ」(JHN)と改称します。

こうして新島は、宣教師としてボストンから日本に派遣されただけでなく、理事長の「息子」として、横浜に戻ります。以後の生活費もボストン(ハーディー家)負担です。

日本に戻った新島は、かつての「ジョウ」(ジョゼフの愛称)を「襄(じょう)」と転換させ、「新島襄」になりました。ボストニアン(JHN)の生き方を日本でも貫徹したい、軸足はボストンに、との願いの表れです。

このボストニアンが、先輩宣教師と「京都」に創設したキリスト教学校が、同志社です。だから、ボストンから見れば、会衆派系の「ミッション・スクール」にとどまらず、ミッション組織の一部(支部)、すなわち「京都ステーション」(ミッション支部)そのものです。

ただ、山本覚馬という人物の協力により、学校が京都にできたことは、ミッションにとっては厄介な問題を孕みます。同志社と京都はミスマッチですから。なぜなら、京都は、外国人に居住・旅行・財産所有などで大きな制約を課す「内陸部」です。だから、ミッションは日本人校長(JHN)を前面に立てざるをえません。ですが、実質的にはアメリカ人宣教師(J・D・デイヴィス)が、影の校長です。つまり、「両頭政治」なのです。

この結果、日本の官庁からは、「外国の学校」だから廃校せよ、そしてミッションの一部からは、「日本人(新島)の学校」だから宣教師が無視される、といった非難や苦情が新島校長に浴びせかけられました。まさに板ばさみです。

これは、ひとつには、新島襄(日本人)とJHN(ボストニアン)という両顔を持つ人格が、校長(創立者)であること、ひとつには、「開港地」(神戸)や「居留地」(大阪)ではなく、「内陸部」のために、「日米協力」型の学校たらざるをえない、という「京都ステーション」の特異性が要因です。

 2006年12月号2面


キリスト教学校教育同盟