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新年メッセージ
教育共同体としてのキリスト教学校
齊 藤 正 彦

 言うまでもなくキリスト教は交わりの宗教であり、共同体の信仰である。それは礼拝を共に守るところに成り立つ、神と人々との交わりである。それゆえキリストの名によって建てられているキリスト教学校は、礼拝において神との交わりに共に与る教職員、学生生徒の交わりを基盤として成り立つ教育共同体であるということができる。

 今日大きな曲がり角に立たされている学校教育の現場で、陰湿ないじめによる自殺をはじめ、様々の不祥事が相次ぐ荒廃した現状を、如何にして再生させるかが緊急の課題となっている。

しかし、どんなに制度を改革し、モラルの低下を正し、学力の向上を図ってみても、学校教育は、教師と生徒、教職員同士生徒同士が、互いに励まし合い競い合って向上する、心のつながりがなければ成り立たない。温かい心の通い合う教育共同体の形成を図ることこそ急務である。下からの教育改革が求められている。

 現代の科学文明の急速な進歩と知識の増大は、人間の生活に大きな恩恵を齎(もたら)したが、それに伴う時代の急激な変化に適応するため、人々は激しい競争に巻き込まれて心のゆとりをなくし、自分の居場所を見失い、お互いを結ぶ絆(きずな)も弱くなって、不信感、孤独感を深めている。

学校現場もまた、高度の知識や技術の学習に追われてゆとりがなく、教師も生徒もお互いに孤立しがちで、悩みや問題を共有することが難しくなっている。

 もともと私どもに平和で幸せな未来を約束するはずの科学技術の発展が、このような人間をばらばらにする分裂と破壊の危機を生み出したのは、「知識は人を高ぶらせる」というパウロの言葉のように、人の手になる知識によって何でもできると思い上がり、神を畏れる謙虚さを失い、科学技術の成果を偶像化して、これを利己的な欲望を満たすために用いようとして、互いに醜い争いを繰り返している、神に背いた人間の罪によることである。豊かさの中で、享楽に憂さを晴らしながらも、自分を見失い、隣人に対しても心を開くことができず、虚しさと孤独感に苦しむ現代人の心の底には、知識を誇り、神を蔑(ないがし)ろにした罪のゆえに失われたものが取り戻されることを求める悶え苦しみがある。それは人間の罪を赦し、神と和解させるために十字架にご自身を献げられたイエス・キリストの愛による他には、決して癒されることのない魂の深い呻きである。人間をばらばらにしてしまう現代文明の危機は、イエス・キリストにおいて齎された和解の福音を他にして、人間の英知や善意によっては決して克服されない。安易なキリスト教ヒューマニズムは、このような時代に生きる人々の心を把えることはできない。

 それゆえに二十一世紀に生きるキリスト教学校は、キリストによる和解の福音が語られる学校礼拝を中心とする教育共同体の形成に取り込むことによってはじめて、自らの存在理由を明確にし、混迷を深める日本の学校教育に再生の道を示すことができるのではなかろうか。

 言うまでもなく、この取り組みは、個々の学校だけでなく、キリスト教学校がカトリックを含めて、相互に連携を深め、問題を共有し共に担うことによって有効に進められる。創刊六〇〇号を迎えた「キリスト教学校教育」紙が、そのために有効適切に用いられることを願ってやまない。

〈東京神学大学理事長〉
キリスト教学校教育 2007年01月号1面


キリスト教学校教育同盟