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神の応答

- 教育基本法をめぐって -

内 山 賢 治

 1.「人格の完成」に関して―「われら」とは誰か―

私は新法の前文にある「我々日本国民」にやや違和感を覚えます。日本には様々な民族、人種の方々が生活し暮らしています。現在全国のJRの標識は四カ国語でされていますが、これは観光客にとどまるものではありません。日産のゴーン氏をはじめ日本人以外の経営者や多くの労働者が日本の社会を形成しており、彼らの存在なしには成り立たなくなっています。また難民や移民の積極的な受け入れを検討すべき時は来ており、「日本人」の多様化は避けて通ることは出来ません。日本にある学校では外国籍の多くの子どもが学んでいます。現場の教師は「我々日本国民」の範疇についての質問を受けた時に答える術はありません。

国会で成立した新法に対して「順法の精神」で臨む時、同時に少数者の尊厳を守ることが必要条件です。民主的な社会には少数意見尊重の基底がその成因です。この基本的人権が尊重されない法は悪法で,他者に順法という名の下で強制は出来ません。つまり旧法前文の「われら」の意味はわれら日本国民の「われら」ではなく、「天にまします我らの父よ」の共同の祈りの「われら」と同質なものです。イエスの時代が多民族であったことはルカ福音書102537節からも理解できます。「われら」はその異文化間社会での「われら」ですが、新法の人格の完成(一条)の対象者は「我々日本国民」という限定なのです。前文の主語の内在位置は変質をしています。山崎正和氏の論調(読売新聞一月二十一日)のように「日本語」教育が最優先事項となる意味はここにあります。キリスト者教職員と未キリスト者教職員で構成されている「使命」教育共同体であるキリスト教学校は、@人と人の間で生き、神との交わりの中で生かされている「われら」、A神の前に人格として同等である「われら」に立って教育活動がなされています。つまり@とAのタテとヨコを紡ぎキリスト教人間観に立ち、人格の完成と隣人愛に根ざした内面的な価値をイエスを通じて組織的、系統的に「平和」を造りだす教育活動をする責務を帯びているのがキリスト教学校です。

キリスト教学校の一員として現場にあるものにとって「みんなで決めた」(前掲)ので意見を一致し一人も漏れることなく法に従って教育をすることに対して現場教師は鳩の素直さで首肯するでしょうか。現場教師が疑問符を持たない時,教育は死にます。順法精神(コンプライアンス)という名の下で内部統制システムの構築に向かうことに懸念を抱きます。戦前の軍国主義教育に正面から意見が言えず、キリスト者としての生き方に対して国家に妥協せざるを得なかった「日本国民」中心主義的な教育を深く反省して「われら」があるのです。

2.文部省訓令十二号(一八九九・八)と二十一世紀のキリスト教学校―誰が「鎖」を解く―

ここで想起するのが一八九九(明治三十二)年に公布された訓令十二号事件です。初期のキリスト教学校にとって訓令十二号は建学の精神に対する試金石でした。学校の生き方と同時に人間として生き、信仰者として生きるか学校経営者として受益者の権益を守るかという内なる問いでした。文部省が「キリスト教教育の理念をその根底から揺さぶりをかけて」(『日本キリスト教教育史』一九九三)きたのでした。つまり「私立学校としてのキリスト教教育の無視」であり「超宗教としての国家神道の導入」(前掲)であったことは歴史が証明しています。

 創立から四半世紀の青山学院、明治学院、東北学院、立教学院、同志社、名古屋学院など男子キリスト教学校に対して「一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於イテハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」(訓令十二号)によってキリスト教教育は「学校」では禁止されました。

 この訓令に従って粛々と教育活動を行うか,訓令に従わないで「学校」の認可取り消しを決断して「各種学校」を選ぶという選択肢があります。後者を選択することにより学校の法的位置づけはがらりと変わりますが、変わらないのは生徒との契約の一つであるキリスト教教育が可能なことです。若き経営者としての苦悩は「学校」としての特典(上級学校の進学、徴兵猶予)を失うことです。青山学院、明治学院、東北学院などのようにキリスト教教育を守った学校と特典を選択した学校がありました。

 もう一つ大事なことは本多庸一院長(青山学院)、井深梶之助院長(明治学院)二人の院長を先頭に「訓令十二号」撤廃運動を起こしたことです。政府が憲法制定につぐ重要課題として不平等条約改正に奔走していた時期にキリスト者の社会的発言と行動に緊迫感と歴史的使命を感じます。

「われら」の私見をマルコ福音書から述べます。

ゲラサ人の鎖はすでに解かれているが、その「鎖」社会から「われら」社会へと解放されたイエスの行動(マルコ5・1〜8/岩波訳)に注目します。

既に鎖が解かれ解放されている「邪魔者」が「われら」社会に侵入してくることに抵抗感がある「われら」の存在があります。そして「邪魔者」をつなぐことは出来ないことも実感した「われら」は、彼との関係は切りたいと願っているのです。「われら」は彼の苦しみを理解する必要もなく、隔離状態の環境にしておけば「われら」のムラ社会は安全であるということです。「わたしはあの人を知らない」(ルカ2257)という「われら」です。イエスはこの「われら」さえ安全で心地よければよいというムラ意識に問いかけているのです。イエスはこの「われら」と共に生きようと彼に呼びかけたのです。彼とは私なのです。

 このイエスの生き様に倣って今を生きることにキリスト教学校の存在意義があるのではないでしょうか。「かまわないでくれ」(新共同訳)「お前は俺と何の関係があるのだ」(岩波訳)をかまい、関係するイエスの生き様があります。引きちぎられた鎖を「われら」の懐にいれ、見えない「鎖」社会を解く「われら」とは誰なのでしょうか。

3.戦争は避けられるが起こる―誰のために「鎖」を解く―

「戦争は避けられるが起こる」。二〇〇六年十一月の中高代表者会議で講演された深谷松男宮城学院長の言葉です。訓令十二号は一九四五年十月に無効となりましたが、新法二条に「教育の目標」を新設した意図は新たに設けた十七条の「教育振興基本計画」で政策が具現化するということです。つまり政府の判断で教育関連法の改正と学習指導要領の改訂もより円滑に行うことが可能になります。教育の決定権が政府に与えられたということは「訓令十二号」の時の権力構造に質的変換をしたのです。

 このように抽象的な徳目を政策で具体化する方向が出現しました。私たちは「内面的価値」教育の確信と自信を深めていく契機と捉えます。充実が問われているのです。聖書科の授業内容と他教科との連携を含めて、各校で独自テキストを作成することが必要ではないでしょうか。徳目教育に対して揺るがない軸の中心となるカリキュラムマネジメントの創出をしたいものです。独自性を発揮できる場は既にあるのです。

 一九四〇年九月の基督教教育同盟会は「新体制化のキリスト教関係諸学校は如何に進むべきか」を主題に学校代表者会議を開催しました。会議では興亜教育に対して方策を立て新体制に適応し,精神教育を重んじる決議をしました。残念ながら訓令十二号事件からの教訓を見出すことは出来ません。揺るがない軸が動いてしまったのです。

敗戦後の一九四七年、教育基本法が交付された年に「Brumbaugh36勧告」が出されました。(『日本におけるキリスト教学校教育の現状』一九六一)。

キリスト教学校は富裕階級やインテリゲンチャ層の子弟ばかりを入れることなく社会の各層の者を受け入れること。(勧告1)
 キリスト教主義学校はその教育の内容が宗教、道徳の教育においてはっきりとした特色があらわれていなければならない。(勧告4)
 学問的に教育的にすぐれた学校たる事を第一義的目標とせよ。(勧告35

 敗戦後の象徴天皇制、基本的人権の尊重、新憲法の制定など体制の大変革の中とはいえ、「一九四五年」を挟んでの七年後に、一八〇度の教育政策の転換をしたキリスト教学校の歴史から学ぶべきものがあります。それは揺るぎのない価値を伝え続けることです。戦争は避けられますが起こるのです。どのような時代であろうとキリストの御言葉に立ちキリスト教人間観に基づく訓令十二号経験学校と未経験学校が仰ぎ見るものは誰かを、多様な方法で生徒、学生、保護者そして地域に発信する時です。

 自ら鎖を解きキリストにある平和を造りだす者をキリスト教学校から生み出して生きたいものです。そして教育をする側の主体者は「揺るぎない軸」を腰に帯し、「われら」がタリタクム(マルコ5・41)に応答をし、イエスを信じて従いたいものです。

〈西南女学院中学校・高等学校校長〉
キリスト教学校教育 2007年3月号7-8面


キリスト教学校教育同盟