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第48回中高研究集会

幅広く深く学ぼうキリスト教の意味


-主題講演-
明治期長崎のキリスト教
-特にプロテスタントを中心に-

坂井 信生




「キリシタン・カトリックの町長崎」、おそらく多くの人びとが抱く長崎のイメージであろう。たしかに、長崎は長いキリシタンの歴史をもち、それと関連した観光スポットも多々存している。とりわけ長崎はカトリック信徒の多いことでも知られている。しかしながら、長崎は日本のプロテスタント史上でも、看過できない重要な地である。開港地長崎にはいち早く宣教師が着任、九州一円へのキリスト教発信基地を築いたからである。本講演では、従来殆ど顧みられなかった長崎のプロテスタントの動向を語ってみたい。

 長崎プロテスタント史は日米修好通商条約締結の翌年一八五九年、ウィリアムスやフルベッキなどの長崎上陸に始まる。もちろん禁教令下のことであり、かれら本来の伝道活動は不可能であった。それゆえ、来るべき日のための「準備的働き」、いわば次のような間接的伝道を展開する。条約による居留自国民の牧会(プロテスタント教会の創設)、漢籍の輸入と販売、英語教育、医療活動、日本語学習と翻訳そして伝道活動である。

 一八七三年待望の禁教の高札が撤廃されるにおよび、長崎在住宣教師―英国教会伝道協会バーンサイド、改革派スタウト、メソジスト派デヴィソン―は、かれら本来の伝道活動を「公然」と開始する。まずはじめに、居留地を出て市中に教会を創設、日本人対象の伝道を試みる。この活動が軌道にのるにしたがい、宣教師の関心は日本人伝道者養成という課題に向けられる。私的神学塾の開設である。神学塾はやがて組織的な神学校へと発展する。ここで養成された伝道者が、「外国人遊歩規定」など制約の多い宣教師に代わって、長崎をキー・ステーションに九州の主要都市に派遣される。長崎を発信基地とする九州伝道の展開であった。明治中期の長崎には、プロテスタント三教派で四校もの神学校が存在した。残念なことに、その後すべて他校と統合され、長崎の地を離れてしまった。

 各教派がそれぞれ学校を創設したことも注目に値する。宣教師は長崎着任後、私塾や幕府直轄の教育機関で英語教育などに従事したが、禁教令撤廃後、伝道の一助および当時の教育事情を考慮して、積極的に学校創設にかかわる。特筆すべきは男子校のみでなく、女子校創設に格別の配慮をしたことである。

 伝道協会は一八七八年、「長崎で開設された最初のキリスト教主義学校」といわれる出島英和学校を、ついで長崎女学校を設立した。改革派にあっては、スタウト夫妻の私塾が東山学院と梅香崎女学校に発展する。メソジスト派は活水女学校と鎮西学院を創設する、といった具合である。興味深いのは、これらの諸学校はすべて東山手居留地ないしはその隣接地に設けられたことである。一時期の東山手は「キリスト教主義学園の丘」の観を呈していた。しかしながら今日、活水以外のこれらすべての学校は長崎から姿を消している。

 このように、神学校を有するキー・ステーションとして、伝道活動の拠点であった長崎のプロテスタント教会は、明治後期に入ると次第に衰退の方向をたどりはじめる。その理由として、何よりも日本の中央集権的政治体制と地方行政機構が確立整備され、とくに九州においては、長崎に代わって熊本が政治、軍事そして教育の中心となり、長崎の地盤沈下が不可避であったことである。さらに、経済面でも、貿易港として横浜、神戸港が整備拡大されるにともない、長崎港の地位も当然低下することとなった。

 こうした動向に対応して、キリスト教界においても全国的規模での教団形成が進み、中央指向がとみに増大することを結果した。かくして、日本の西端の地方都市長崎の教会が、かつて果たした役割と機能の多くを徐々に失っていったというべきであろう。

 ともあれ、日本のプロテスタント史上、とりわけ明治期に果たした長崎の重要性はきわめて大きいものがある。われわれはこのことを再評価しなければならないであろう。

〈活水女子大学教授〉
キリスト教学校教育 2007年5月号2面


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