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第95回総会 開会礼拝奨励

「霊による歩み」

廣 石   望

  

学生たちには大学が「守られた空間」であること、いろいろな方向性を試しながらゆっくり成長してよい場所であることを先ず知ってほしいと思います。そうした空間を支えるのが、それぞれの学校が「建学の理念」として大切にしている、キリスト教信仰に基づく精神です。

 今日の聖句に「霊の導きにしたがって歩む」とあります。キリスト教は霊の宗教、物や数よりもスピリットを重んじる宗教です。人は変わることができる。過酷な現実に最終的にやりこめられたりしない。またあらゆる価値観や路線の違いを超えて、霊(精神)において連帯・共感できるというのが基本です。

 パウロは「霊の結ぶ実」(単数)を「肉の業」(複数)と対比させます。一つの実りと、多くの業々の対比です。これは主体そのものよりも、それらを導くものに強調点があることのしるしです。「実り」とは、私の外側にある力が私を通して何かを育み、それが私たちの生きる根拠になることを示唆します。

 またパウロは、「霊に導かれているなら、あなた方は律法のもとにはいません」、さらに自分たちは「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」のだから、「うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と言います。「ガラテヤの信徒への手紙」は、洗礼を受けてもユダヤ教の律法に即した生活様式をしなければ立派なクリスチャンではないという主張に反論し、信仰の自由さを回復させるために執筆されました。つまり傍目には信心深くて立派な生き方も、実際には神の現実を台無しにする生き方である場合があるわけです。

 学校の中にも争いや路線対立はあります。私の所属する教会の教会学校礼拝で、保育施設で働いている教師の方から次のようなエピソードを伺いました。乳幼児でも一歳にもなれば、おもちゃや絵本のひっぱりあいをするそうです。勝負がつかないとそのうち口が出て、相手の腕をガブリとやる。でも一人だけ、絶対に友だちのおもちゃをとらない子どもがいた。ところがその子の腕に、ときどき歯型がついている。その子は「お友だちにやさしくしましょう」と言われて、たいへんに頑張っておもちゃを貸してあげていたのですが、どうしても我慢できないとき、思い余って自分の腕をガブリとやっていることが分かりました。学校にも、生徒・学生ばかりか職員や教員の中にも、こうした繊細な精神の持ち主がいるのではないでしょうか。

 パウロは「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と言います。ギリシア語原文は、「私たちは事実、霊との関わりの中で生きている。ならばこの霊に足並みを合わせていようではないか」と敷衍(ふえん)できます。保育園では、子どもたち皆で歌を歌うのだそうです。霊による歩みは、私たちの歩みですが、私たちの行動能力の産物や業績ではありません。それは素晴らしい音楽に合わせて歌う歌や踊りのようなものです。十字架と復活の調べは人類全体の死と再生の歌です。この調べに注意深く耳を傾け、静かに身を委ねるとき、踊りの輪やパートナーは様々でも、私たちは一つなる「霊の実」、つまり神の新しい創造へと変えられてゆくのだと信じます。

〈フェリス女学院大学国際交流学部教授、宗教主任〉
キリスト教学校教育 2007年7月号2面


キリスト教学校教育同盟