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第77回夏期研究集会 主題講演
キリスト教学校の意味―教育基本法の前提にあるもの

阿久戸 光晴

 本年度夏期研究集会は7月30日〜8月1日、御殿場・東山荘で開催された。主題は「幅広く深く学ぼうキリスト教学校の意味―教育基本法の前提にあるもの―」で、参加者は四十法人より百十名であった。会長を寺園喜基氏(同盟常任理事、西南学院院長)が務めた。

 Virtual realityというIT言語は日本では「仮想現実」と訳される。virtualの語源はvirtueであり、「実質的には存在するもの」が本来の意味である。良いvirtual realityがあって真のrealityが現れてくる。まさに良き教育visionがあってこそ、青少年の「人格の完成」への道が開かれる。キリスト教学校は教育理念を明確にする必要がある。

「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。この御言葉の歴史的意義は大きい。父母を血縁の象徴と理解するなら、正に日本社会は第二次大戦の敗戦前まで徹底した血縁社会であり、日本国家は民族国家であったのである。天皇は各一族の家長を束ねる大家長であり、そのまま国家神道の大祭司でありカミであった。国家は神道と一体となり、学校も忠実な臣民の育成を強いられていた。しかし敗戦とともにすべてが覆された。この破綻は歴史の必然であった。なぜなら「血から契約へ」という人類の精神史の大局的変遷が日本でも現れたからである。成立した日本国憲法はまさに社会契約書であった。その重要条項の一つが「教会と国家の分離」であり、「信教の自由と結社の自由」である。特に後者は自発的社会団体の自由であり、私立学校の固有理念に基づく教育の自由の根拠である。また河井道らのキリスト者によって教育基本法が起草された。これは客体的国家規範としての憲法を運用する主体的規範としての役割を担うものであり、教育勅語に代わる。この原教育基本法の主題は「自由」である。第1〜2条に自主性、自発性という重要鍵言語が出ており、自由の正しい使用ができる成熟こそ「人格の完成」である。

三島由紀夫は『英霊の声』において天皇の人間宣言を批判したが、人間を無理に「神」とすることこそ虚偽であることを黙示した。もはや逆行はできない。しかし戦後、憲法や原教育基本法への批判が続いた。それは自由の成熟教育に戦後の教育界が成功しなかったからである。戦後の「自由」が東洋起源の「自らに由る」あり方のまま、人間のエゴ強化になった。この問題は元来パウロの課題であった。自由の福音が受容されたかに見えたコリント教会に起きた甚だしい倫理的腐敗、それは自由に罪が巣食う現状となった。しかし反動がガラテヤ教会で起きた。それは一旦与えられた自由を捨て、伝統規範(律法主義)に回帰しようとする。パウロは教育的に苦闘したが、この課題は現代に通ずる。

日本は敗戦後、自由と民主主義の根拠となる「崇高な理想」をより根源から追究すべきであった。しかし戦後の日本国家の舵取り責任者は、まずパンの問題を解決すべく経済発展を目指した(かつての軍事強化のように)。そこに精神の真空が生じ今日に至っている。暫くの間は経済発展の成功を可能とした冷戦構造があった。陰に陽に米国の支援があり、日本の精神の問題性は覆われていた。しかし今や冷戦が終結し米国の日本に対する関心は低下した。ここに一方で日本の政権担当者が米国に擦り寄ろうとする理由があると同時に、米国に気兼ねなく伝統規範に帰ろうとする政治的反動の原因がある。

それにしても「改定」された教育基本法には問題が多い。教育行政、保育の独自性、宗教教育の意義など指摘すべき点は多々あるが、根本は自主性・自発性育成という本質に伝統的価値が融合されたことであり、教育という民間組織の役割に国家が出ることである。憲法改正自民党案にも問題点が多い。一つあげれば、民間が果たすべき公共空間に、国家を介入させることである。国家の役割が根本的に誤解されている。こうしたナショナリスティックな反動は普遍的価値を共有し得ないゆえに、国際社会から信用を失墜するであろう。キリスト教学校は、こうした誤れる方向性への批判闘争以上に、自由の成熟という形成闘争が今後重要となる。

良いヴィジョンなくして良い現実は現れない。キリスト教学校こそ普遍性と真の個性を併せ持つ明確なヴィジョンを堅持し、使命は大きく、課題は多い。まず自由の成熟教育を引き受けることである。パウロはコリント教会に宛てて、マケドニア教会における「愛と自由の結合」の事実を見て希望を見出し、見習うように激励している。この視点をキリスト教学校も共有できる。また現代契約社会でその地位が不安定となっている幼児やハンディを持たれる方々の人権を守り、正当な権利の代弁をすることである。キリスト教学校は人間各人に固有の個性と能力の可能性を神から与えられていることを知るゆえに、偏差値教育という青少年の成長可能性を阻む考え方を克服する使命がある。さらに、神々を相対化しひそかに自己を絶対化する多神教的な相対主義的価値観でなく、また自己を神と自己同一化しすべての他者を裁く原理主義的価値絶対主義でもなく、神の前に自己が常に打ち砕かれて謙虚にされ(寛容の源泉)、しかも神が与える高い目標を目指していく、謙虚にして活力ある新しい日本社会の礎づくりに挑戦できる。

芥川龍之介に『トロッコ』という短編がある。一人の少年が車夫にいざなわれてトロッコを押すことになり、すっかり日が暮れた頃、車夫に放置される。この少年の「トロッコ不安」は黒船以来日本が体験してきた心理である。トロッコ体験をする度に、何度も「美しく安心できる故郷」へ戻ろうとする試みがなされる。しかしこの小編の結末も少年が故郷に留まらなかったことが暗示される。大事なことは、後向きになる精神でなく、世界史的潮流の中で目指すべき目標地点(自由の成熟教育)を見定めそこへ向かっていく精神である。日本を取り巻く嵐の中でキリスト教学校は賢明な舵取りにより、灯台の役割を果たしうる。

〈聖学院大学学長〉
キリスト教学校教育 2007年9月号1面


キリスト教学校教育同盟