ホーム < キリスト教学校教育 < 07年9月号 < 2面


主日礼拝説教
「神よ、私をもっと知ってください」
藤本  満

  

 神はあなたを極めている、その視線からあなたは逃げることができない、と言われて、恐れを抱かない人はいません。私たちはだれでも、人前で話すことをいやがります。それは、自分が人の視線にさらされるからです。顔も服装も、見られる立場に自分を置くと、あるいは鋭い視線を向けられると、なんだか裸にされているように感じます。

 この「見られる・裸にされる」とは、私たち背負っている根本的な問題だ、ということを聖書は教えています。創世記に人間の初め、アダムとエバの話しが出てきます。二人がサタンの誘惑に落ちて、罪を犯したとき、目が開かれます。そして自分たちが裸であることを意識しました。そのとき、彼らはいちぢくの葉で腰を覆うものを作ります。つまり、罪を犯したとき、二人は互いに裸を意識して、そのままの自分が見られるのを恥ずかしく思ったということです。

 二人は神の視線も避けます。かつては、そよ風の吹く頃、園の中を歩き回る神の声を聞いたとき、嬉しく、平安を楽しんだのです。しかしいまは、その声に恐れを感じて、木々の間に隠れます。かつては、神の視線を喜んで受け入れていた彼らが、いまでは心の中まで見られてしまうのを恐れて、神から隠れました。

 私たちは、ありのままの自分を見られる、知られることを恐れます。自分に恥ずかしい部分があると思うと、それを隠します。

 しかし、興味深いことに、私たちは、ありのままの自分をさらけ出せる安息の場所を捜し求めているのです。知られたくないと思いつつ、本当に近しい人には、知ってもらいたいと思っています。それを、カミングアウトと言ったりしますが、その瞬間が緊張です。つまり、ありのままの自分を出したとき、相手は自分に幻滅するかそうでないのか、つまりありのままの自分を受け止めてくれるか、それとも否定されるか、心が揺れます。

 その緊張が、ダビデの詩編三二編によく出ています。  

「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」(三節)。

罪を犯したのに黙っていました。しかし、ダビデは神がそれをごらんになっていることを日々意識していました。

「御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました」(四節)。

 ある日彼は、沈黙を破って、神にします。「主にわたしの背きを告白しよう」。隠しておきたい、でも本当の自分の姿を知ってもらいたい、と大変な緊張をもってダビデは、神に告白したのです。

「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(五節)。

神は、ありのままのダビデを受けて止めてくださったのです。恵みの神は、彼を赦してくださいました。

 自分を究める神の視線から、どんなに逃げても逃げ切れることではないと、ダビデは知っていました。しかし、その神の視線を彼は恐れてはいません。先ほどの一三九編は、こう結ばれています。

「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」

 私の隅から隅まで神に知られている、これこそ私たちの幸せであり、平安なのです。だから、もっと究めてください、とダビデは祈っています。

 神が、知っていてくださるのは、私たちの罪だけではありません。ありのままの私に含まれているすべてのことです。私の思い煩い、心の傷、恐れ、願い、今日の私のこと、明日の私のこと、すべてです。この方の視線から逃げるのではなく、ダビデのように「もっと究めてください」とこの心と、この生涯を神の御前に開いていくとき、私たちはこの方の恵みと力に出会っていくのです。

〈イムマヌエル綜合伝道団高津教会牧師〉
キリスト教学校教育 2007年9月号2面


キリスト教学校教育同盟