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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

第46回大学部会研究集会講演
主題「共に重荷を担うキリスト教大学
― その固有の使命を果たすために ―」

北垣 宗治

 この夏東山荘で開催された第七十二回夏期研究集会でのL・K・シィート先生の主題講演の要約を『キリスト教学校教育』九月号で読んだとき、「キリスト教界の勝利主義」という言葉が私の関心を強く引きました。全世界のキリスト教化という目標は、あまり反省されることなく漠然とすべてのキリスト教学校を方向付けてきた、という気がするからです。私はキリストの福音によって救われた者であり、一人のキリスト者として、キリスト教を除いて私の存在を支えるものはありませんが、しかし、キリスト教が世界の唯一の宗教でなければならないと主張することはできません。諸宗教がそれぞれ絶対性を主張すれば、平和を達成することはできなくなります。二十一世紀は宗教間対話の世紀でなくてはなりません。

 敬和学園大学のような地方にある、歴史の浅いキリスト教大学は、どのような基盤に立って戦略を組んでいくべきか、これが私たちに課せられた重い、しかし光栄ある課題です。この問題を考えるさいに、非常に勇気を与えてくれる文章があります。それは恵泉女学園大学の荒井献・前学長が『大学時報』(二〇〇〇年九月号)に書かれた「付加価値と存在価値―大学教育の社会的責任に寄せて」というエッセイです。そこで荒井先生は二十世紀がひたすら「所有価値」を追求する世紀であったこと、日本もまた資源を確保するために戦争という手段に訴えたけれども敗戦によって挫折したこと、戦後はそれまでとは異なる手段で経済成長を追求し、成功をおさめたかにみえたがバブルの崩壊に終わったあげく、環境破壊や学級崩壊を招いたという経緯を総括した上で、それは「所有価値」を絶対視し続けた結果だったのではないかという問題提起をされました。「所有価値」に対置されるのが「存在価値」です。人間や自然を「あるがままの姿で受け入れる、あるいはむしろそれに仕えることに価値を見いだす。―低成長、ゼロ成長、いやマイナス成長でも何が悪いか、受験生をほぼ全員入学させざるを得なくなっても何が悪いかと、一度根底的に居直って、『存在すること』に価値を見いだしていく。」荒井先生は、二十一世紀はそのような「存在価値」の時代になっていく、または、なっていかざるを得ないと見ておられます。

 敬和学園は所有価値でなく、存在価値を追求する教育機関であることを志してきました。それ故、一人ひとりの生徒・学生を大切にすることを基本的な教育方針としています。敬和学園高校の榎本栄次校長は高校生との日々の接触の中で、生徒たちの躓きやもつれをときほぐし、援助し、前進させてやるためには、矛盾するとも思われる二つの態度を取る人です。ひとつは生徒がどんな失敗をしても、どんな問題を起こしても、生徒を共感的に理解し、受容する態度です。いまひとつは、絶対に許さないという厳しくて冷静な態度です。このどちらを欠いても教育は成り立たないことを、榎本校長から教えられます。

 敬和学園高校の教育を基本的に方向付けたのは太田俊雄初代校長でした。校長の方針は毎朝全校チャペルで神を礼拝すること、大学入試のための準備教育を高校としては行わないこと(偏差値教育の拒否)、そして週に一時間、額に汗して労働する「労作」の時間を設けることでした。この労作の精神は、高校より後発の敬和学園大学において、開学以来、福祉マインドを養成するための、必修のボランティア実習の実践に活かされています。

 敬和学園大学はクリスチャン・リベラル・アーツ・カレッジであることをめざしています。人間形成のためには知育、徳育、体育の三分野が重要であるといわれますが、普通の大学では知育に一二〇単位、体育に四単位、そして徳育にはゼロ単位である、というのが現状ではないでしょうか。たしかに徳育は単位化することになじまないでしょうが、それでも大学が、特にキリスト教大学が徳育に工夫をこらすことは、現在のような政界、財界、産業界のエリートたちが平気でウソをついたりワイロを取ったりする時代には大事なことだと考えます。では、いかにして大学において徳育の復権をはかったものでしょうか。

 大学では対話の教育を通して、徳育に資することは十分に可能であります。文学作品を通して、人生をいかに生きるべきかを考えさせる。歴史、哲学、倫理学、人間学、法学、社会学、国際関係論、平和学等、こういう科目にはいつでも「人々はいかに生きてきたか?」「私はいかに生きるべきか?」「世界平和のために私たちは何をなすべきか?」「自然との共生、諸国民の共生をどのように考えたらよいか?」といった問いを絶えず投げかけて、学生に考えさせるのです。二十一世紀の大学における総合科目として「環境問題」ほど適切で時宜にかなった科目はありません。これはすぐれて学際的な科目であり、一人の教授が権威をもって教えられるようなものでなく、自然科学(化学、遺伝学、環境衛生学)、社会科学(産業構造、経済発展、地球開発論、企業論、環境経済学)、人文科学(哲学、倫理学、環境倫理学)といった諸学問を噛み合わせて、総合的にアプローチする必要があります。学生一人ひとりが、環境問題を自分自身の問題として捉え、教師たちと同じ立場に立って共に探求していくべき問題です。これこそが生きた学問の探求であります。

 私はすべてのキリスト教大学が存在価値を追求する大学であることを希求します。偏差値の追求は所有価値の追求です。人は出会いを通して触発されることにより、人格になります。それ故キリスト教大学は、クリスチャンの教師を必要とします。クリスチャンの教師は、たとい草の根をかきわけても探しだし、獲得すべきであると確信するものです。

〈敬和学園大学学長〉

キリスト教学校教育 2002年11月号2面