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新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

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キリスト教学校教育バックナンバー

第47回事務職員夏期学校
キリスト教入門特別講義

聖書・21世紀のプリズム

野村 祐之

 21世紀も9月末には千日目を迎えます。新千年紀だ、新世紀だと騒いだ当初の興奮もどこへやら。この世の現実は以前にも増して深刻の度合いを深めているようにすら思えます。児童生徒がいつどこにいても生命の危険が襲いかかるかもしれない不安を抱いて日々を過ごす社会の将来に希望の光は見出せるでしょうか。聖書はそんな状況に何を示し得るのでしょうか。

 プリズムを光にかざすと七色の虹が現れることにニュートンは気づいたといいます。虹は、聖書では神様がノアに与えた希望の印です。虹の色は科学的には六色(三原色プラスそれらの中間の三色)ですが、信仰深いニュートンは七を聖書の「完全数」と考え、虹の色を七色に見てしまったのです。

 今の世界の現実に聖書というプリズムをみるとき、わたしたちの信仰の目に希望の虹は見えるでしょうか。

「知」の分析的アプローチ
 われわれホモ・サピエンス(知の人)は知を介せずには物事が納得できません。「学校」も人間が知的訓練のために造り出したシステムです。

 ものを知ろうとするときは対象を冷静かつ客観的に、分析的に見ようと努力します。science(知識)の語源は「切り分けること」。どうりでハサミのscissorsとスペルが似ているわけです。科学も「分・科の・学」です。日本語で「解る・分る・判る」などと書くとき、どの字にも「刀で切り分ける」要素があります。実際には刀ではなく・理で・解するのですが。そして理の鋭い人をシャープだ、とか切れる!などといったりもします。このように、客観的分析的に切り分ける知、科学的知を「分析知」と呼びましょう。

「関係の知」
この他にどんな知りかたがあるでしょうか。実は聖書的な知りかたというのがあります。たとえば、創世記4章のはじめに「アダムは妻エバを知った」とありますが、この二人はエデンの園でとっくに知り合いだったはず。でも続けて「彼女は身ごもってカインを産み」とありますから「知った」意味の想像がつきます。これを関係の知、「関係知」と呼ぶことにしましょう。

 ちょっと極端な例だったかもしれませんが聖書の知は全巻を通して、客観的「分析知」ではなく、主体的な出会いを通してお互いを見出す「関係知」です。

 巻頭の「天地創造」も、神が全世界を関係の中へと呼び出す物語です。ところが人は蛇の分析的誘惑にそそのかされて、神との本来的関係を断ってしまいます。この、人間存在の「関係の破れ」が原罪です。

 人間が本来の関係を回復できるようにと、神はモーセを通して律法を授けました。しかし人間はそれを分析知でしか受けとめず知的解釈を加え、関係回復どころか相互の関係を断ち切る道具にしてしまいました。

 これにもこりず、神は人を本来的関係へ呼びもどそうと、御子を世に送られた、と新約聖書は伝えます。福音書は「インマヌエル(神は我々と共におられる)という関係知でこの出来事を受けとめています。

 イエス様ご自身、「神の国とは」「隣人とは」「愛とは」といった分析知的質問に対し、たとえ話などを用いて関係知でお答えになり、「行って、あなたも同じようにしなさい」と主体的関係へと招かれます。

 また全知全能の主、聖なる神に対して「アッパ(お父ちゃん)」と呼びかけるなど強烈な関係知的神認識を示しておられます。

 宗教改革者ルターが強調した、「信仰義認」も、神の救いは「信仰」という関係知によるものであって、どれだけ善行を積んだとか献金したとかボランティア活動したとかいった、コンピューターにインプットできるような分析知によるものではない、ということでした。この点についてヴァチカンでも、近年、ルターが全面的に正しかったと公に認めています。

実生活における分析知と関係知
 日原重明先生が若いお医者さんたちに先輩としてお話になるのをうかがう機会がありました。

 「診断には最新の知識と技術をつくし、客観的に正確にしなさい。いったん検査結果が出て治療方針をたてるときには、一息ついて、その患者さんが自分の妹だったら、母親だったらどうしてあげたいか、そういう気持で考えてごらんなさい」と、おっしゃるのを聞き、「なるほど!検査には分析知をつくす。しかし実際の治療は関係知において」ということだな、と僕は受けとめました。そうです。分析知と関係知はあれかこれかの二者択一ではないのです。分数のようなもので、分母が関係知、その上でこそ分子の分析知に本当の意味が出てくる、という関係にあるのです。

インフォメーションとコミュニケーション
 分析知の内実はインフォメーションです。インフォームとはフォーム(型)にインすることですから情報の一方的押しつけです。そこへいくとコミュニケーションは全く違います。「コ=互いに、共に」「ミュニュス=贈り物、奉仕」ですから、お互いに贈り物、奉仕をしあうこと。そしてそこにはコミュニティが生まれます。コミュニケイトとは文字通りには「(関係を)コミュニティ化する」ということです。

関係知、そのカギは「愛」
 分母である関係知とそのコミュニティを成り立たせているには「愛」だ、というのがイエス様の教えの究極のポイントです。それもギリシャ語でアガペーと呼ばれる無条件、無償の愛です。中世にはこれをCARITAS(カリタス)というラテン語に翻訳され、それが現代英語ではCHARITY(チャリティ)となったわけです。チャリティの原点こそ他ならぬアガペーの愛なのです。

キリスト教学校の今日的役割
 キリスト教宣教が今こそその原点、建学の精神にある聖書の関係知、アガペーの愛の精神に立ちもどるとき、現代社会のプリズムとしてA・D2003年、紀元二十一世紀にAnno Domini (主の年)としての輝きをとりもどし、世の光として希望の虹を高くかかげることができるのではないでしょうか。

〈青山学院大学・女子短期大学講師〉

キリスト教学校教育 2003年9月号6面