キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
高橋 一
「神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレト3・11)
十九世紀の英国の詩人にジョン・キーツがいる。若くして死去したが、その詩は今も多くの人に愛されている。英文学史上、キリト教に人間性を新たに賦与した詩人がキーツであったと言われるゆえんである。
ところで、キーツの詩(詩学)の重要な概念に、“Negative Capability”(直訳すると消極的能力)がある。キーツの書簡にある言葉だという。
これはかみくだいて言えば、「人生、物事、人間関係における不確かさ、不思議さ、疑い、わからなさのただ中にあって、手早くその理由や意味をつかみ取ろうとはせず、むしろその不確かさの中に積極的に居続けられる能力」とでもなろうか。キーツはこれが詩人にとって必要不可欠の能力であると語ったのである。
これに関連して、精神科医の土居健郎氏による『方法としての面接 臨床家のために』(医学書院)の中の考察をぜひとも紹介しておきたい。土居氏はこの“Negative Capability”に触れてこう語っている。
この能力は、詩人にとってと同じくらい精神医学やカウンセラーを志す面接者にとっても必要である(たぶん牧師や教師にとっても――筆者)。なぜなら、ある問題を抱えた人が目の前にいるとき、面接や対話によって相手を自分の了解可能な範囲で「わかる」(わかってしまう)のではなく、もっと深い意味で相手が「わかる」のでなければ、ほんとうの意味で相手を「理解する」ことにはならないからである。
そのためには、逆説的であるが、まず「わからない、不思議だ、が、ここには何か問題が潜んでいるにちがいない」という直感力が重要である。あえて自らの判断を積極的に停止して、「わからない」感覚を涵養し、新鮮な驚きをもって接する力が重要になってくるというのである。私はそれ以来、“Negative Capability”という言葉を「わからなさに耐え続ける力」と訳したいと思うようになった。
私たちが自分自身の人生や現実、あるいは他者の存在に深く関わるとき、この「わからなさに耐え続ける力」を維持して、自己と他者と世界をもう一歩深く理解する道へと歩み出していきたいと思うからである。
〈酪農学園大学宗教主任〉
キリスト教学校教育 2004年3月号1面