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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

第49回事務職員夏期学校

主題講演

「キリスト教学校を共に担う」
-信仰、希望、愛を絆として-

石井 道夫

 本年度事務職員夏期学校は7月30~8月1日、御殿場・東山荘で開催された。参加者は三十三法人より八十六名であった。

キリスト教学校はどこから来たのか

 キリスト教学校を担うということで第一に考えなければならないことは、教職員は「建学の精神の担い手」であるということです。
 建学の精神は聖書の言葉や創立者の言葉であったりしますが、どれもがその学校のキリスト教教育の原点です。この建学の精神が疎かになると、キリスト教学校は生命力と活動力を失いただの学校に堕してしまいます。また、建学の精神を自ら生き創立者となった人々の情熱も覚えたいと思います。
 創立者は学校によって宣教師、日本人キリスト者であったりしますが、そこに共通するものは強い「召命感、使命感」です。例えば横浜共立学園の創立者となった三人の女性宣教師は、横浜での女子教育、混血児養育の担い手を求める呼びかけに「我、もし死ぬべくば死ぬべし、ピアソン」「全身全霊を注いで、主が命じられた仕事(使命=mission)につくため」「キリストが私を呼んでいる(召命=calling)」という言葉をもって応答しています。そして、創立者たちはそれぞれの地で、信仰に根ざした教育に従事し、困難の中でも希望を失うことなく、与えられた児童、生徒、学生を分け隔てなく愛しながら、将来に必要な知識技術を教え、地の塩、世の光として社会に送り出したのです。また、その後の歴史を担った人々も建学の精神を教育の鏡として覚え、教育の道筋を誤ることがないようにと生きて来たのです。そして、キリスト教学校はこの建学の精神が枯れることのないように、日々礼拝を守り、聖書を学び、祈り続けて来ました。

キリスト教学校はいまどこにいるのか
 
 第二のこととして、キリスト教学校が今日おかれている状況の中でキリスト教教育を担うということです。
 高校生新聞に、大学では「少子化と競争」をキーワードに生き残りを賭けた改革が行われているとありました。この改革はカリキュラムや教育組織の改編という教学面だけでなく経営面にも及んでいることと思います。まさに「大学大変」といったところです。
 しかし、その時にこそ「重要なこととそうでないことを識別する感覚(センス・オブ・プロポーション-新渡戸稲造)」を大切にしたいと思います。改革で先ず求められるのは成果です。これは誰にも分かり易いし実効性もあります。しかし、教育というものはすぐに形に現れにくいものです。したがってこの授業は、この施設は、この業務は無駄だからといって簡単に切り捨ててしまわないようにと思います。
 特に、キリスト教学校にはそのようなものが多いように思われます。礼拝、キリスト教関係の授業や行事はそのようなものです。また、新聞にはどの大学が本当に自分を大切にしてくれるか、自分の将来のために学ぶ場を提供してくれるのかしっかりと選ばなければならない。そのためには、入試課だけでなく学生課にも行ってみることを勧めるともありました。学校における職員の方々の働きがいかに大事かということでもあります。
 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(フィリピ1・9)

キリスト教学校はどこに行くのか
 
 第三に私たちはこれからのキリスト教学校の担い手でもあるということです。
 学校に送付される大学案内に国公私立を問わず「自立と共生」という言葉が目立ちます。二十一世紀の教育の重要なキーワードなのでしょう。しかし、日本のある人たちは、キリスト教はこれからの社会が求める「自立と共生」には役立たない。むしろ阻害要因だと主張します。
 けれども、私はそうは思いません。それは創世記一章二十六節の「支配」という言葉の誤った解釈に基づいていると思われるからです。また、聖書の示す世界観、人間観は、二十一世紀の世界の課題といわれる「環境破壊、民族問題、少子高齢化問題、生命倫理、崩壊した共同体(家庭、学校、地域社会)の再形成、人間性の回復」の解決に寄与することが出来るのではないかと考えます。また、キリスト教学校も大学に限らず諸学校の教育のあらゆる場面で問題に積極的に取り組むことが出来るのではないかと思います。さらに、世にはキリスト教教育に対する密かな期待があるように思います。ある保護者は「キリスト教の学校は生徒を大事にしてくれると聞きました。だからうちの子も入れてもらえたらと思って」と言われました。大事にされなかった生徒の親の思いかもしれませんが、キリスト教教育に希望を抱いている言葉と聞きました。
 最後に、ルカ福音書十章二節に「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とのイエスの言葉があります。
 この言葉は、現在のキリスト教学校の状況をよく表しています。キリスト教学校は、いまキリスト教教育の担い手を真剣に求めています。「わたしがここにいます。わたしを遣わしてください」と応える人を。

〈横浜共立学園学園長、中学校・高等学校長〉

キリスト教学校教育 2005年9月号2面