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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

第49回事務職員夏期学校

全体会のまとめ

田中 立子

キリスト教学校の担い手として

 今年度の事務職員夏期学校は「キリスト教学校を共に担う」をテーマとし、校長として石井道夫先生、牧師として塩谷直也先生、講師として富岡幸一郎先生をお迎えして行われた。キリスト教学校を担う者へのメッセージ、キリスト教への誘いとして準備された講演、夏期学校参加者を養い育てる礼拝説教を題材としてグループごとに意見交換を行い、全体会で分かち合った。各グループの発表内容を紹介し、各講師による発表への応答をまとめることで全体会の報告としたい。

主題講演から

 自分の役割について改めて考える機会となった。

 学校で行われる礼拝への取組みが難しい。礼拝の「あり方」を考えることが課題となっている。

 国公立大学に比して私立大学はその建学の精神を大きく掲げることによって、組織としての目的を明確にすることができる。

 学校の一員として自信を失いかけていたが、かけがえのない存在としてそこにいるのであるとのメッセージから、勇気を得ることができた。

 洗礼を受けていないと役職者になることができないのはおかしいのではないか。

 キリスト教学校であっても次第に宗教色が薄くなっている。どのようにキリスト教教育(礼拝参加等)を根付かせていくかが課題である。

 教員と合同の修養会やオリエンテーションがあると良いのではないか。

 事務職員には礼拝出席をしにくい業務形態となっているので、キリスト教に触れる機会がせばめられている。

 非常勤・嘱託でキリスト教学校に働く人材に学校の歴史や建学の精神を理解してもらう努力が必要なのではないか。

 キリスト教精神に基づいて、学生の為にさまざまな切り口でプログラムを用意し、彼らの将来のために多くの種まきをしたい。

特別講義 キリスト教入門から

 日本におけるキリスト教の歴史的背景を知るきっかけとなりそうであり、キリスト教文学を早速読んでみようと考えた。

 キリストの香りを伝えるものとして文学は有効な手段となることが理解できた。

 講演の中で紹介された「信仰は重いのではなく、人間を軽くしてくれる」という言葉に感銘を受けた。

 紹介された作家の名前は知っていたが、クリスチャンであることは知らなかった。

 講師によって内村鑑三が紹介されたが、『非戦論』の中でどのように内村のキリスト教信仰が表されているのか。

 キリスト教における終末論とはどのようなものか。

石井道夫先生からの応答

 私にとって、ショックだったのは「クリスチャンでないとえらくなれない」という発表であった。誤解を恐れずに言えば、ノンクリスチャンの学長であったりすることは、問題ではない。キリスト教教育をつらぬくかどうかが問題なのである。

 キリスト教学校教育同盟では学校や年齢の枠を越える場を提供している。自分は何者なのかという問いから、キリスト教学校に働く意味を知り、自分の立ち位置を確認する意味がある。この研修に参加して、心が軽くなり、熱くなったのではないか。

 各人の中にクリスチャンであること、或はノンクリスチャンであることに関するわだかまりはあるか。存在と機能を分けて考えてはいけない。自分の仕事の問題と学校の組織の問題を切り離してはいけない。横浜共立の宣教師たちは経営と教学を両方担当した。このような担い手の在り方が必要なのである。

富岡幸一郎先生からの応答

 非常勤の教員や職員についての話が発表されたが、確かに大切なことである。学校の外の方々に礼拝説教をお願いするなどの努力が必要と考える。

 また、共に担う主体は学生である。学生とどう向き合うかということも課題となる。学生はどこの面を見て、どう評価するかが難しい。学生を人格として見ることができるかどうかが問われている。

 学校の組織の中でこのようなことを考え続けることはかなりの重荷である。この重荷を解放するために、礼拝が学校の中に存在している。このことはすばらしいことである。そして、学校が営利企業と異なるのは、共に担うことができる場であるということなのである。

内村鑑三『非戦論』について

 この作品には絶対平和のメッセージが込められている。日露戦争を前にして、いかなる戦争にも理はないという内容である。内村鑑三には強い再臨の信仰があった。endという言葉には「目標」という意味がある。争いは未だ止まないけれども、目標に向かって今ここで何をするべきかを考えるということである。信仰をもつことによって、内村は非戦を語ったのであった。

塩谷直也先生からの応答

 終末は神様の完成のときであるというのが、キリスト教の信仰である。終末=破滅ではない。カール・バルトは終末論を大事にした。彼は、人はどんなに真剣やったとしても、究極一歩手前の真剣さでするべきであると主張した。しかし、この考え方は、どうせ神様が完成するなら何もしなくてもよいという静寂主義を生むことがある。バルトの終末論と静寂主義との違いは、究極に向けて私も神に召されているというモチベーションがあるかどうかである。わたしたちも完成を目指して、その働きに参与している。しかし、すべてを成し遂げるのではなく、最後は神様が完成させて下さるという余裕を持って参与することが大事なのである。

研修を通して

 どのようにキリスト教学校の存立基盤を認識し、どのようにその活動に参加すればよいのかについて、私たちは三日間を通して学ぶことができた。熱い軽やかな心を持って、神様への信頼という余裕を持って日々の業務に取り組んでゆきたい。

 この研修のために祈り、備えて下さった講師の先生方、キリスト教学校教育同盟の事務局の方々に心から感謝申し上げたい。

〈青山学院大学庶務部庶務課〉

キリスト教学校教育 2005年10月号4面