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希望と喜びに生きる-新たな転換期に立つキリスト教学校-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

パネルディスカッション発題
この学校に入って良かったと思えるように

松田 和憲

 主題、副題からイメージする事柄は、それぞれの学校が置かれた地域、社会において、キリスト教学校の建学の精神、歴史、伝統、教育への独自な取り組みのゆえに、あの学校に入りたい、入らせたいとの思いを抱いてもらう。そして学生・生徒を受け入れたなら、彼ら、彼女たちが、期待に違わず、その学校生活をエンジョイし、卒業の際には「この学校に入ってよかった」と心から喜んでもらえるように、教師たちが思いを一つにして持ち場立場でベストを尽くすことではないか。「言うは易し行うは難し」の類かもしれないが、具体的にはどうしたらよいのか、大学の現場からの切り口で、日ごろ自分なりに考えていることを話してみたい。こうした事柄は一朝一夕にできることではなく、何といっても日ごろの積み重ねが肝要である。授業、礼拝、サークル等で関わりを持つ学生に自分の方から声をかけ、質問や相談があれば、真心をもって応対する。できるだけよく準備をし、学生が興味を抱くような講義や授業になるように工夫を凝らす。そうしたことの積み重ねと、小さなことへの日々の気配りがまずは大切であると考えている。我が関東学院大学のプログラムとしては学生支援センター、フレッシャーズ・セミナーなどを挙げることができよう。

 大学時代は、学生にとって精神的・社会的・経済的自立へのプロセスの段階であり、その自立を支援することが我々の務めである。自立とは自己客観化すること、すなわち、自分が何者であるかという問いを抱き、神の前での自分の姿を知ることにある。キリスト教学校では、その自分を見つめ、映し出す「鏡」が聖書となる。カルヴァンが「神を知ること」と「自分を知ること」は表裏の事柄であると語ったように、各自が神の前での自己を知るように応援する。そこで大切なことは「自己受容」、すなわち、ありのままの自分の姿を知り、それを受け入れる、そこからすべてが出発することを伝達していく。具体的には、礼拝、講義をはじめ、個別のかかわりにおいてコミュニケーションを図っていくことが必要である。

 もし学生たちの中で、自分の大学に誇りを持てず、ある種の負け犬意識を抱いているならば、それを払拭できるように支えることも大切である。競争原理、比較原理、一般的な価値観からはそれを乗り越える発想は生まれてこない。たとい入った段階では不本意であったとしても、自分の置かれた環境を受け入れ、それに柔軟に対応し、やがてはその「出会い」、関係性に満足し、感謝の念さえ抱くようになる。少数ではあるが、そうした学生もいる。我々教師は、こうした学生がひとりでも多く起こされるように祈り、心を尽くしていくことが求められている。そのためには、聖書の中から、一人一人はかけがえのない存在であり、神の前には「高価で尊い」存在であることを何とかして伝えたい。学生一人一人は自らの存在根拠を知り、自己の確立ができたとき、自分の置かれた状況を受容し、そこに置かれた意味を見出し、前方に向かって歩み出すことが可能になる。大学としては、できる限り、環境を整備し、学生の充足度のレベルアップを図ることが必要であろう。一方において、クリスチャン教師は、その精神を理解してくれるノンクリスチャンの先生方ともタイアップして、聖書のメッセージが、学生たちの心の琴線に触れるよう、様々な機会を用いて伝える努力を惜しまないよう心がけたい。キリスト教大学の教育理念には人格形成と専門的知識の伝達といった二つの柱がある。この両者は、本質的には深いところで結びつくべき事柄であるが、現代の学校教育においては、往々にして、両者は分離し、後者にのみ力点が置かれている傾向にある。もしそのあり方に甘んじるならば、「効き目がなくなった塩」となり、その存在理由を失ってしまうだろう。肝要なことは、にもかかわらず、建学の精神をいかに具現化するか、それを恒久的な課題として、こだわり続け、その問いを問い続けることにあるのではないか。そうした取り組みの輪が広がり始めたとき、新しい方向性が見えてくるのではないだろうか。

〈関東学院大学教授、宗教主任〉

キリスト教学校教育 2006年10月号2面