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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

希望と喜びに生きる-新たな転換期に立つキリスト教学校-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

第1回(第39回中高)全国聖書科研究集会
主題 「幅広く深く学ぼう キリスト教学校の意味」

関田 寛雄

講演 聖書をどのように学び、どのように伝えるか -学校で福音を語るとは-

一、学校で福音を語るとは

(1)三つの前提

 ①まず、キリスト教主義学校の「公共的性格」の問題である。キリスト教主義学校は他の学校と同様、「教育基本法」に基づき「真理と平和を希求する人間の育成を期すると共に、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を営む所である。

 ②それと共にその目的に向かって個性的な、「キリスト教私学」という立場で貢献する事をキリスト教主義学校は前提している。公立学校と異なって「キリスト教私学」の使命は公教育の持つ積極的意義を評価しつつも、わが国がかつて陥った国家主義イデオロギー教育を反省し批判し、キリスト教信仰に源を持つ「建学の精神」に立って教育する所に我々の教育の独自性がある。

 ③それ故キリスト教主義教育とは、信仰告白とバプテスマを目標とする教会教育とも異なり、「建学の精神」をドグマ化する事なく諸文化的事象(平和・人権・環境など)との対話によって福音のもたらすキリスト教的エトスに生徒を習熟せしめる事であろう。無論そのプロセスの中で教会出席や受洗希望が生まれる事は喜ばしい限りである。それは恵み深い聖霊の導きに他ならない。

(2)キリスト教主義学校における聖書科教育

 キリスト教主義学校における聖書科教育は建学の精神に関わる中心的営みである。しかし教育現場におけるその位置はしばしば「風前の灯火」の感がある。生徒たちの問題意識と聖書の内容との余りの隔たりに教師はしばしば茫然自失する状態である。そして聖書を歴史的遺産とか文学的遺産という位置づけで、聖書科を一般教科に近づける事で生徒の受容を求めがちになる。これは聖書科の堕落である。聖書は神の書であると共に人間の書であり人間存在の意味と様態を問い続ける書である。凡そ人間世界において問題になっている事に対して対応できないような事柄は聖書のどこにもない。この事が聖書科教師の経験に基づく確信となっているのでなければ聖書科教育はできない。それはドグマ的な独断でなく感謝と希望に溢れた謙虚な確信である。そのためにも聖書科教師は自らのためにこそ聖書の内容を深く知り、聖書に関わる新しい情報について不断に学び続けねばならない。

二、聖書をどのように学び、どのように伝えるか

 それにしても聖書の中には躓きに満ちた箇所が多くあるのをどうすべきか。今日のフェミニスト神学、人権と平和を希求する立場からの聖書に対する多くの問いかけは必然のことである。聖書科教師は聖書の中の「闇」(非福音的)の部分と「光」(福音的)の部分とを弁別しつつ、権力におもねる事なく、民衆と共にありたもうたイエス・キリストを視座として読むべきであろう。「闇」と「光」は弁証法的関係にあるから(ヨハネ1・5)、「闇」を聖書から排除する事は許されない。そうする事は「光」がその効用も失う事になるからである。

 「闇」をも含めて聖書は「正典」である。例えばヨシュア、士師、サムエルにおける異民族抹殺の記事はイザヤ書11章の永遠平和の預言によって克服すべきであり、コリントの信徒への手紙一11章7~10節は、続く「主においては」(11~12)によって止揚されるべきである。いずれにしても聖書は「人間化」の福音を基準にして「内容批判」的に読まなければならない。

 かくして聖書科教育はすべての教科を意味あらしめる、基礎的な「福音」の教育となるであろう。これを「自由と愛」の教育と言ってもいい。

三、「証人」としての聖書科教師

 聖書科教育は学校という文化の営みの直中において、深く文化に沈潜しつつ超越者を指向する営みである。それは生徒たちの問題に即して社会、家庭、性、進学、人間関係などの生活・文化事象を正面から受けとめ、共に呼応しつつ解決に向かって同伴し続けるべきであろう。

 しかし、生徒の実存において救い主キリストの現実が成就するのは、遂に教師も用いたもう神の働きに尽きる。信仰の「直接的伝達」はあり得ないからである。しかしそうだからこそ教師は福音の「間接的伝達者」、即ち「証人」として生徒の前に立つべく招かれている。聖書の内容の知的伝達を越えて、生徒は教師の実存における福音の現実の証言を待ち望んでいる。教師が自らの人生の苦悩を経て福音の喜ばしい事態に辿り着いた「物語」―証―に勝って生徒の心をゆさぶるものはない。要するに教師において福音が「受肉」していれば、招かずとも生徒は引きつけられて来るのである(ヨハネ6・44)。聖霊がそれを導かれるからである。ナザレのイエスにおける神の言の受肉の事実を、自分なりに類比的に生かしめられる所に聖書科教師の光栄の全てがあるであろう。

〈元青山学院大学教授・宗教主任〉

キリスト教学校教育 2006年11月号2面